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二度目の『聲の形』

 先日『聲の形』のテレビ放映があった。観るのは二度目である。
 前回は、聴覚障害者をとりまく問題の理解に役立つかな、という仕事上の要請から観た。補聴器をつけたヒロインの動向とその発音に注目したほかは、今風の若者たちの人物画になじめなくて、ふーんと思っただけで終わった。
 今回はアニメ好きの知人が「この映画は観なあかんやろー」と言ったのを思い出し、もう一回観てみようかと思ったもの。今頃になって、これがあの「京アニ」作品なのか、と気づいた次第。

 改めて感じるのは高校生の登場人物が、みんながみんな人間関係が不器用で、コミュニケーションが下手に見えること。どいつもこいつもまるで昔の私みたいだ。今もこんなに不器用な若者がいるのだろうか?とも思う。
 高校生たちの人間模様の背景に、障害に基づくいじめ、自死未遂、ヤングケアラー、不登校といったモチーフが出てくる。いじめ、不登校、あったなぁ…。

 すーっと意識が10代の頃に引き戻される。
 自分といじめとの関係性を告白すると、無実とはいえない。今でもいじめた側の経験者として、もし会えたら「あの時のことを謝りたい」と思う人が一人いる。
 この時は、その子を貶める暴言に同調しなかったら、その子とカップル扱いされそうで周囲の圧力に負けた。だが、私の同調がついに心の堤防を決壊させてしまったらしく、彼女を泣かせてしまった。すぐに悪いことをしたと悔いたのだが、当時の自分はそれをうまく表現する術を知らなかった。
 ただし、障害児をいじめたという記憶はない。なぜなら統合教育はまだ緒に就いたばかりで、周囲にほとんどおらず、関わる機会が全くなかったから。

 いじめたことは免罪されないが、身勝手なもので、自分の中で何十年間も肥大化したままなのは、いじめられた側としての経験である。
 未だに生々しくは語れないのだが、体育の授業のたびに一年間、特定のクラスメイトから徹底的にやられた。教師はそれを見て見ぬふりをした。
 当時は「いじめ」という言葉がなかった。いじめるというのは動詞であって、いじめという名詞は存在しなかった。「いじめ」という言葉は80年代以降、マスコミが問題視する中で初めて普及したものだ。
 例によって、私も「いじめられる自分に非があるのだろう」と思い込み、コンプレックスの塊になって心を閉ざすようになった。そして、それを黙認するクラスメイトたちの誰とも交わらなくなった。交わらないからやがて排除されるようになった。

 映画の主人公はいじめっ子で、それがバレたことで、スケープゴートにもさせられて、クラスの皆から排除される。そこは自分とは全く違うのだが、クラスメイトの全員の顔に×がついて表情が見えない、という表現には、めちゃくちゃ共感する。こちらから見えないし、自分も見たいとは思わない。
 また、もう一つ、映画と同じだったのは、なぜかそういう自分に関心をもってくれる、たいそう個性的なごく少数の友人がいてくれたこと。
 ここからは映画と違うかもしれないが、その友人たちも自分と同じく、クラスの主流派でないどころか、完全に排除されていて、排除された者どうしでつるんでいる状態だった。
 私は「弱者の傷のなめ合い」みたいな構図が嫌だったが、そのおかげで死なずに済んだのは事実だ。やはり思春期~青年期ほど、死というものに近しい世代はないなと改めて思う。

 しかし、いじめられた経験は、その後の全人生においてバネになった。
 なぜ自分はいじめられなければならなかったのか。徹底的に考えた。当時は今のように自己責任論が席巻する世の中でもなく、また、永山則夫の『無知の涙』が売れるほど、社会環境要因に目が向けられていた。
 私も初めは加害者個人への恨みつらみで頭がいっぱいだったが(もちろん今でもそいつが来そうな同窓会には行かないが)、やがて学校体制や教育カリキュラムなどの構造にも原因があると思えてきた。
 それが突破口で、その後の私は「はじける」ことができた。クラスメイトなんて、たまたま地域が一緒だとか、学力の輪切りで同じだったとか、その程度のことじゃないか。そこで出会えた親友だけは大事にしたらよい。全員と仲良くなる必要なんてないし、自分が求めている友人は学校の外にもっといるはずだ。
 ずっと学校にいる必要はない。自分から積極的にひとに会いに行こう。旅に出よう…、と自分の人生を展開することができた。

 映画の話に戻ると、聴覚障害というモチーフは大切なのだが、当事者の心中を十分には描けていないと思う。
 日本手話と日本語という言語の違いから(普及の度合いだけでなく権力性も含めて)、全体的にどうしても周囲の健常者の考え方に引きずられているし、障害当事者のヒロイン自身の考えをしっかりまとめて表現できていないように思う。
 例えば、ヒロインがどうして自死を企図するのか。障害を苦にしたものと単純化するのか、それとも、もっと深くは視聴者がご自由に解釈を、とするのか。
 外国人の場合は、文化や感性の違いから、言語ではとりあえず通じても理解できない部分はあるよね、と変な納得をすることが多い。
 聴覚障害の場合は位相が違うというのか、筆談等で意志疎通できたはずだし、同じまちで同じように暮らしてきたはずなのに、なぜかわかり合えない闇の部分が残る。欲を言えばそこまで描いてほしかった。