言葉は手持ち花火

SNSの世界は僕の暮らしの3割くらいを占めていて、もうほとんど身体の一部と言っていい。

それゆえ、SNSで与えられたダメージは身体に直結してくる。
日々意識していることを書きたい欲求が抑えられなくなったので、あまり見られていないここで吐いてしまおうと思っている。

SNSでの発言は可燃物なので、ゴミ出しのように丁寧に分別して指定された場所に残置しなければならない。

特に拡散性の高いXでの発言は細心の注意を要する。

世間の話題、炎上していることに関して、思うことがあっても絶対に発言しないと決めている。
炎上案件について述べることは、火事の現場に花火の種火をもらいにいくようなものなので、「対岸の火事」のままにしておくためには一切発言しないことだ。

何か発言したいなら紙に書いたあとに自分で物理的に燃やすくらいしか安全はない。それくらい、「公開された場所」での発言には責任を伴うし、公開された以上は放火されるリスクを負う。

SNSの怖いところは、誰も放火の認識がないところ。
些細な議論から始まり、最初は傍観していても、それについて自分にも何か言えることがある場合、人は発言したい欲求を抑えられなくなる。(このnoteもそう)

先に書いたが、SNSでの発言とは手持ち花火に火をつけるようなもので、火種にわーっと人が集まり、祭りとなり、炎上するのである。

ほとんどの人は自分は火事とは無関係で、野次馬として、もしくはお茶の間での世間話として、思うことを述べているだけだろうが、公開された意見は誰かの目に届き、手持ち花火を渡す役目を果たす。花火を持った人間は火種に向かう。何ならすでに火のついた花火を渡されていることもある。
その火を踏み消せる人間でなければ、自分か、誰かをいずれ燃やすことになる。流言は智者に止まる、という言葉がある。智者は自分と関係のない火事場で議論することはないと思う。

自分の考えを整理したくて軽い気持ちでXに書いている人もいるだろう。
繰り返すが、公開された以上可燃物だ。
考えを整理するために使うのであればXを始めSNSは不適格である。

実生活で、生身の人間相手に自分の意見を発言することは様々な制約もあり、勇気や覚悟のいることだ。SNSではその匿名性ゆえ覚悟が鈍る。
だから気軽に発言できる。
「思ったことが言える」インターネットの世界はユートピアだった。
自分の意見を発信することは、快感を伴う。
自己同一性を再認識するきっかけでもあった。

しかし、残念ながらその時代は終わった。
誰かへの怒り、憤り、悲しみ、憐れみ。正義。
建設的な正論だったとしても、SNSで発言する以上はエンタメ性を持った綺麗な花火になってしまう。

発言する、というエンタメ。それが現代のインターネットである。
そして誰の発言にもいつだって火薬と酸素が含まれている。

自分の発言は綺麗な炎色反応を示している。
快楽のために発言し、その言葉から散る鮮やかな火花を眺めて喜んでいる。

その覚悟を持って発信したい。

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