彼岸の蝶

 緑の葉が徐々に紅や黄色に彩られていく十月のある日、岩倉真尋は散歩の帰りに人気の少ない小路に一人の男が電話をする様子に目が留まった。男が通話を終えたら話しかけに行こうと考えた真尋は小路に入っていった。小路を歩く真尋に気づいた男はは、通話を終えて真尋が近づいて来るのを待っているかのようだった。真尋が恐る恐る話しかけると、男は温和な態度で真尋の緊張をほぐしていった。
「あの、先程散歩をしていた帰りに貴方の事が目に留まってとても気になったんです。」
「そんなに緊張しないでいいよ。」
「何となく怪しい雰囲気があって……好奇心に負けてしまったんです。」
「そうか。好奇心に駆られるのは良いが、度が過ぎると詮索になってしまうので程々に。」
その男は真尋の心奥にある飽くなき好奇心を見抜き、好奇心のままに行動する事とそのリスクを物腰柔らかく言った。その後、日が傾く中彼らは小路を歩いていく。男の名は蝶野敦史。歩いている小路の先に活動拠点を置いている、素性が謎に包まれている者だ。彼が拠点を置く古寺に到着した時には、既に宵の帳が降りていた。
 境内に足を踏み入れた時、真尋は言葉にならない程の悪寒を覚えて表情を強張らせる。その様子を見た敦史は肩にかけているウエストポーチの中を探り、小さな鈴を取り出して鳴らした。
「これで大丈夫。悪いものがつかない様に護りの術をかけたから、安心してほしい。」
敦史の一言で真尋は胸を撫で下ろす。二人は古寺の庫裏に足を運んだ。

 その日の深夜、真尋が散歩の時に背負っていたボックスリュックの中から筆記用具等を取り出して書き仕事をしている最中、怪奇現象が起こった。襖の引き戸を閉めた筈なのに僅かに開いている。真尋が引き戸を閉めようとした瞬間、境内に入った時感じた寒気が再び彼の背に忍び寄る。境内での出来事を思い出した真尋は敦史を捜すも、庫裏に敦史の姿はない。残った可能性は庫裏よりも広い本堂だ。真尋はスマホをリュックから探し出したが、電池の残量が三割を切っていた。薄暗い中本堂に続く廊下を歩く真尋の脳裏に不安がよぎる。その不安を振り払って、彼は突き当たりの引き戸を開けようとした。
「……え、開かない。敦史さん、そこにいるなら戸を開けて!」
真尋が声をかけると、内側から答える声が。
「真尋を危険な目に遭わせたくないんだ。どうしてもと言うのならば……戸に貼ってある護符を一瞬だけ剥がすから、その間に中に入って。」
真尋は敦史の返答に一瞬ためらいを覚えたが、引き締まった表情で戸の向こうにいる敦史に言った。
「敦史さんがGOサイン出すまでこの戸を押さえているよ!」
その答えを聞いた敦史は、了承の合図に鈴を鳴らす。中にいる彼は、真尋と会った時のモノトーンの服装とは異なり、右袖に白と橙の蝶の模様がある黒い和装姿となっていた。
 蝋燭の焔が揺らめく中、敦史は古寺に棲みつく悪鬼・魑魅魍魎と対峙する。銀灰色の刃光る妖刀を振るい怪異を祓うその姿は、この世のものとは思えぬ迫力と言葉に表せない程の魅力を伴っていた。一方、外から戸を押さえつけていた真尋は、終始背にほとばしる寒気
と全身の緊張で一睡もできずにいた。この一件が片付いた時には、空は白み始めていた。

 敦史が戸を開けると同時に、緊張の糸が切れた真尋が飛びついた。互いが無事だと分かり、静かに涙を流す真尋を敦史は優しく抱いた。その後敦史は頃合いを見て、真尋に素性を打ち明けた。……自分が幽明の境を往来する、泉下の役人である事を。衝撃のあまり絶叫する真尋を横目に、敦史は何処からか飛んできた紅い蝶と戯れていた。

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