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レヴュースタァライトの夜明け

円 あすか
https://twitter.com/maru_aska


1.プロローグ 夜の奇跡

 夜明け前のひとときのことを「かわたれ時」と呼ぶらしい。まだあたりは薄暗くて相手の顔が分からず「彼は誰ぞ(かわたれぞ)」と訊いてしまうことからそう呼ばれているとのことである。まだ天然のスポットライトである太陽は昇らず、物語は始まったばかりで、あらゆる可能性が散りばめられている時間と言えるかもしれない。まだ自分が「何者」か分からず、それゆえに「何者」にでもなれる可能性を秘めた、そんなひとときに瞬いていた明星を見つけて、見惚れて、近づいて、惹かれて、離されて、夢中になってしまったのが「舞台少女」である。

2.華恋とひかりは何者か

 なぜ舞台少女たちは「舞台」に上がるのだろうか。それは、舞台が「何者か」になれる場所だからだと思う。古川監督は「アタシ再生産」について、インタビューで以下のように答えている。

『舞台では演者は別人として蘇る。でも、どこかにアタシがいる。アタシのまま、別の誰かになる。でもそれはアタシ。(中略)演劇人というのは一度死んで蘇ること――「生きる」ということを、急激なサイクルでやっている何者かなんです。』

古川知宏,武井風太(取材),「舞台装置とアタシ再生産」,2019,オーバーラップ,p.26

 華恋には本当に好きなものが無かった。目指すべきアタシというものが無かったのだと思う。しかし、ひかりと出会ってしまった。華恋は「何者か」を自然に演じるひかりを見て、アタシのまま別の誰かを演じても良いんだということを知ってしまったのだ。そして、生まれてはじめて華恋の中に演じてみたい役が生まれた瞬間でもあった。

 一方で、ひかりは何者かを演じることができても、本当に演じたい役が無かったのだと思う。「舞台の上では、私はどんな私にだってなれる」と分かっていても、届きそうにない塔の頂上を目指すことはやはり怖くて、諦めようとしていたのである。しかし、華恋と出会ってしまった。華恋に「行こう、あの舞台へ。輝くスタァに二人で」と言われてしまった。華恋に見初められてしまったひかりが舞台から降りることは、もはや許されない。ひかりは華恋にとっての星、スタァとしてキラめかなければならなくなった。

 こうして二人は舞台少女に生まれ変わった。すなわち、舞台少女になる前の華恋とひかりはここで一旦その役を終えてしまうのだ。可能性に満ち溢れた夜明け前、華恋とひかりは自分たちの運命をわずか5 歳で溶鉱炉に捧げてしまうのである。輝くスタァを目指して生きていくということは、それ以外の未来を捨てるということでもある。たとえば華恋の中学校の級友たちは、華恋の失われた可能性として登場している。志望校を決めることができないぐらい、あらゆる未来の選択肢を残しながら生きていくこともできたはずだし、放課後、修学旅行という直近の予定について楽しくお喋りすることもできたはずだった。けれど、華恋はもっとずっと先の未来のために、普通の楽しみ、喜びを燃やさなければならなかった。本当にこの道で正しいのか分からないまま、東京タワーに近づいているのか、遠ざかっているのか、それすらも分からないけれど、それでも約束の舞台に向かって周りの全てを燃やし続けるのだった。

 こうした回想シーンで振り返っている華恋の歩みは、そのままレヴュースタァライトの愛城華恋としての「役作り」として描かれているのだと思う。本来アニメ制作においてプリプロダクションの中で行われるキャラクターデザインをアニメの中で行っているのである。そして回想が新しくなるにつれてだんだん日が暮れていくことは、このアニメ作品において愛城華恋というキャラクターの出番が終わりに近付いているということだろう。

 夜になって、ひかりと再会する華恋。そこで華恋は、トマトに背を向けながらひかりに近づこうとする。ひかりとの約束があったから、ここまで来れたし、ここに立つことができたと思っている。しかしここで、これまで見落としてきた重大な観客の存在に気がつく。それは「もう一人のアタシ」である。幕が落とされて第四の壁が取り払われた時、その観客席には我々がいたわけだが、そこに「もう一人のアタシ」もいたのである。それは、何者かになりたくて舞台少女を演じてきた華恋を見守っていた、もう一人の「舞台少女ではない華恋」である。本当に好きなものが見つかる前の華恋。心のどこかで不安を抱えている華恋。友達との時間を失わなくていい華恋。普通の楽しみ、喜びを享受できるはずだった華恋が、舞台少女 愛城華恋をずっと見守っていたのだ。舞台列車に登場する華恋たちは、これらの「もう一人のアタシ」として登場している。逆に言えば、舞台少女 愛城華恋は、こうした「もう一人のアタシ」の可能性を奪って、摘み取って生きてきたとも言えるのだ。これこそが、「星を摘もうとした罪」ではないだろうか。舞台少女は、星を摘むために「もう一人のアタシ」の可能性を犠牲にしてきたという罪を背負っているのだ。

 そして、トマトが爆ぜて華恋は死んでしまう。ここでレヴュースタァライトの愛城華恋は一度終わってしまうのである。

 ここでひかりが華恋を東京タワーから突き落とすと夜が明けるのはとても印象的である。夜の奇跡の終わり、レヴュースタァライトの終わり、思春期の終わり……そして舞台列車が動き出す。舞台列車の中にいるのは「もう一人のアタシ」である。これまで見守ってくれていた「もう一人のアタシ」からトマトを受け取る。それは最後の犠牲でもあり、罪の赦しでもある。アタシを最後まで燃やし尽くす覚悟が必要だったのだ。 「もう一人のアタシ」が燃料となったことで最後のアタシ再生産を遂げた華恋は、東京タワーの展望台で最後のレヴューを演じる。夜明け前のひととき、思春期、そしてレヴュースタァライトを終わらせるための舞台である。華恋の口上の「愛城華恋は舞台に一人」とは、どんなにひかりを追いかけてもひかりにはなれないということだ。どんなに凄い何者かを演じていたとしても、必ずどこかにアタシが在り続ける。だから「私もひかりみたいになりたい」ではなくて「私もひかりに負けたくない」が最後のセリフになるのである。そして華恋の中から溢れ出すポジションゼロ。華恋がひかりと立ちたかった、ひかりこそが自分の舞台だと思っていた、目指していた、縛られていた、呪われていた、約束、運命の象徴が止めどなく溢れ出して東京タワーが真っ二つになり、裂け目から陽が差して、ついに東京タワーの夜が明けるのである。みんなで上掛けを空に還していくシーンは、卒業式に帽子を空高く投げる学生を彷彿とさせる。劇場版スタァライト唯一のポジションゼロ宣言で、ようやく舞台少女たちはレヴュースタァライトを卒業して、次の舞台に向かえるようになるのである。

3.劇場版スタァライトとは何だったのか

 劇場版スタァライトは、詰まるところアニメ映画の一つであるということになる。つまり、人が作っているものだ。古川監督をはじめとする数え切れないほどの人が集まって制作された「作り物」である。舞台にしても映画にしてもアニメにしても、それらは全て「作り物」であることに変わりはなく、つまり「本物」ではない。その上で、普通は作り物であることを隠して、いかに本物らしく見せるかを考えるものだが、レヴュースタァライトは作り物であることがむしろ印象に残るように作られている。例えば古川監督はアタシ再生産バンクについて以下のように発言している。

『「工場だ」というのは早い段階で言ってましたね。「作り物だ」というのがポイントだったんです。舞台って、セットが全部作り物じゃないですか。その感じを表現したくて、機械から切り出されるということをやりたかったんです。』

「舞台装置とアタシ再生産」,p.5

 普通のアニメの変身シーンなら魔法のようにキラキラと光って大変身!…という演出が多い中で、あえてレヴュースタァライトでは工場の機械からキャラクターが切り出されるということをわざわざやっているのである。

 劇場版スタァライトもキネマシトラスという工場で生産されている作り物と言えるかもしれない。つまり、魔法ではないのだ。沢山の人が苦労して戦って作り上げているものなのである。

 なぜこれを強調しているのかというと、きっと劇場版スタァライトを作り上げてくれた人たちも、昔、夜明け前のひとときに劇場版スタァライトのような作品に出会っていると思うからだ。

 何かを作りたい、何かを生み出したいと考える人には、きっと忘れられない運命の作品というものがあると思う。自分の人生を大きく変えてしまうほどの、誰かが生み出してくれた圧倒的な「作り物」。見る前と見た後では周りの景色が違って見えるような、良くも悪くも見る前の自分には戻れない出会いこそが「星摘み」である。夜明け前のひとときというのは、そういう自分だけの星を見つけなければならない時間でもあるのだ。

 星を見つけて目を焼かれて「いつか自分もあんな凄い作品を作ってみたい」と思ってしまったら、きっととても険しい道のりが待っていると思う。星を見つける前の自分を燃やして、アタシのまま何者かを演じなければならないのだ。古川監督が

『何者かになれなかったら死ぬしかないじゃないですか。恐ろしいんですよね。怖くて仕方がない。』

「舞台装置とアタシ再生産」,p.8

とインタビューで答えているように、それは恐ろしい道に違いないと思う。アニメ制作現場に限らないけれど、現場という舞台は総じて怖くて大変なところだ。古川監督が

『現場ってそういう残酷なものですから。描いている時は夢一杯で、でも、それがどこかで崩れていく。僕たちは制作中、いつもその瀬戸際にいます。「スタァライト」もその戦いのなかで、本当に守らないといけないことをどうにかスタッフが守り切った......その物だと思っています。』

「舞台装置とアタシ再生産」,p.10

と吐露しているように、まさしくレヴューのごとき奪い合いが行われている。劇場版スタァライトも、二時間という決められた尺(*1)、限られた制作時間、予算、人員、ありとあらゆる人たちとの意思決定の戦いなど、表には出てこない数え切れないほどの奪い合いがあったはずだ。役作り中の華恋と同じく失ってきたものも多くあると思う。

 それでも古川監督をはじめとする多くの人が劇場版スタァライトを生み出すために戦うことをやめなかったのは、古川監督の以下の発言が理由になっていると思う。

『アニメ制作は3Mです。モテない、儲からない、未来が見えない。けれど、フィルムは残る』

古川知宏,「『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』アニメメイキングセミナー」内での発言,2019年3月21日

 これは「アニセミ(*2)」というアニメ業界に興味がある人が集まったセミナーで出た発言である。アニメを作ることはとても苦しい。けれど、見てくれた人の中にフィルムは残り続ける。そうしてフィルムは観客の血肉となって、いつかそれが新しいフィルムを作るための燃料になって、そうして生まれたフィルムがまた誰かの血肉となる。こうした再生産によって、私たちは生かされている。

 劇場版スタァライトとは、まさに誰かにとっての血肉となるように作られた映画だと思う。夜明け前のひとときにキラめく星のように、誰かにとっての道標になるような、人生を変えてしまう運命の作品になるべく制作されている。それはひかりにとっての「私の全てを奪っていい。だからあなたを全部頂戴」と言ってくれる華恋であり、華恋にとっての「あんたのキラめきで貫いてみせろ」と言ってくれるひかりのような存在かもしれない。私たちが舞台の上で星を血肉にして何者かを演じていることにはきっと価値があるということを教えてくれている映画である。


*1 https://febri.jp/topics/starlight_director_interview_1/,「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト 監督・古川知宏インタビュー①」,Febri,最終更新日:2021年6月15日,最終閲覧日:2022年3月31日

*2 アニメメイキングセミナーのことです。2019年3月21日に開催されたスタァライトのアニセミでは、古川知宏監督や音楽プロデューサーの山田公平さん、作詞の中村彼方さんが登壇して4時間ぐらいずっとレヴュースタァライトのことを資料付きで解説してくれました。

4.エピローグ 本日、今 この時

 なぜ映画の最後で華恋は「みんなをスタァライトしちゃいます!」と言ったのだろうか。それは、華恋にとって初めての主演舞台でのセリフ「ノンノンだよ!」が、演じたあとも華恋の言葉として華恋の中に残されたように、レヴュースタァライトの主演を演じ切った華恋に残ったものだったのだろう。私たちも、もう身に付けなくなったけれど傍にある王冠の髪留めのように、劇場版スタァライトを血肉にしてどうか新しい舞台に立ち続けられ
ますように。

著者コメント(2022/10/10)

 こんにちは!円あすかです。劇場版スタァライトを公開日に観劇してから300 日が経った今日このごろです(執筆時)。ずっと感想・考察を書こうと思っていたのですが、結局一文字も書けないまま時間が経ってしまいました。書くことからずっと逃げていたんですね。書いてしまったら本当にスタァライトが終わってしまう気がしたし、自分の気持ちを正確に言葉にできないと思ったからです。でも今回の劇ス卒論合同企画によって〆切を与えてもらったおかげで、なんとか血を吐きながら言葉にすることが出来ました。機会を与えてくれた主催の皆様、応援してくださった皆様、そして今これを読んでくださっているあなたのおかげで、どうにか成仏できそうです。本当にありがとうございました!

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