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眞井霧子と雨宮詩音が隣り合う意味とは

藤樹 翠
https://twitter.com/Toju_midori1461

Notice ・本稿は2022年10月に発行した劇場版スタァライトの考察・感想合同誌『舞台創造科3年B組 卒業論文集』に掲載したものをそのまま転載しています。 ※寄稿者の希望で修正を加えている記事もございます ・本稿は2022年4月に受け取った初稿を、以降数ヶ月掛けて寄稿者と主催チームとの間でブラッシュアップして作成しました。 ・考察に正解はなく、どの考察も一個人の解釈であることをご理解ください。 ・「九九組」「アニメ版」など、人によって意味合いや解釈が異なる単語については、寄稿者の使い方を尊重しています。 ・本稿は『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の二次創作作品であり、公式とは一切関係ございません。

 人は約束した時のこころを忘れる。そして約束した時の思い出も。そのため思い出には意味がなく、その時感じていた『永遠性』や『特別』もあてにはならない。

 忘れてしまった思い出や特別はまるで宙に浮かんだままの風船のように、ただそこにあって無意味な存在になってしまう。

 それならば、未来に続いていく繋がりとは何か。その繋がりを信じていたいと思えるのは何であろう。舞台少女の物語ではそれが純粋さであり、幼さであった。

 人は生まれついた時は純粋だった。それは成長し時間が経つごとに失われていく。純粋なままで生きられることは珍しく、またそういう人間は社会に適合できない。純粋さはエゴイズムなのだ。純粋さだけを表現しようとする人間は大人の社会にとって危険だ。自らの欲望を世界に向けようとするテロリズムに似ている。物で満足した人間は人との繋がりよりも自らの内側へとこころを成長させた。それ故に人はエゴイズムから逃げることができなくなるのだ。そのエゴから逃げられないという心情から目を逸らし不恰好に恰好をつけようとすることが、大人になることだとどこか勘違いしていた。

 人は自らの純粋さを思い出し、取り戻そうとすることに臆病でなければならない。その臆病さを自認し他人にその姿を見せなければ、本当の意味で子供の頃の純粋さを取り戻したとは言えないだろう。

 純粋さを取り戻そうとする際に、臆病になっている姿勢はとてもカッコ悪く人に映る。それはある程度成長すれば嫌でもわかることだ。そのカッコ悪くなることから、人は逃げようとする。見た目だけ整えて恰好をつけた存在であろうとする。そうやって取り繕った時間だけを過ごしても、つまらない人間になってしまうだろう。どうせなら、カッコ悪くなっておくべきなのだ。生きていれば大抵はカッコ悪いのだから。

 劇場版では無数にカッコ悪い人間が登場する。それらは作品を見れば分かることだろう。

 しょうもないというカッコ悪さ。

 自分の言葉を持たないというカッコ悪さ。

 対話から逃げようとするカッコ悪さ。

 自分に合わないことをし続けるというカッコ悪さ。

 カッコ悪いということは悪ではない。もし悪だったのだとしても、それは個人が感情に頼って嫌っているだけのことに過ぎない。

 人は能力があればこそ、他人に対してエゴイズムをぶつけることにためらいを覚えるようになる。それは自分の醜さをさらけ出すことだからだ。自分を恰好よく見せようとしてきた人間ほど、それは難しくなる。

 しかし人間はもっとカッコ悪くなれるのだ。歴史上掃いて捨てるほどの人間がカッコ悪くなってきたはずだから。そうして臆病なこころと純粋な気持ちを取り戻した時、今よりも少しだけつまらない人間になって、今よりも少し自分を許せるようになる。

 自分で自分の過去を許し、自身を自らの親とすることで、自分を育てることができるようになる。それがきっと愛を得るということなのである。自分を愛する人間だけが他人を愛することができる。自分で育てた愛を自分に与えることが、愛と自らを親として育てることに相互に作用している。

 眞井霧子と雨宮詩音が隣り合う意味とは、まさしく愛であった。

 キリンはそこまでの水分補給も睡眠も必要とせず、群れ同士のつながりも薄い。余分なことを彼女たちはしていた。彼女たちがお互いにしていたことは紛れもなく生態としては不必要なことだった。

 だが雨宮詩音にとって、書き終わらなかった原稿は、眞井霧子の手を掴むほど他人にさらけ出すことをためらうものだった。自分のこころを反映させたそれを、見せたくないという気持ち。それはクラスメイトに申し訳ないという気持ちと、眞井霧子との約束を守れなかったという悔しさがあるのかもしれない。そして、その時に彼女は臆病でカッコ悪くなっていた。これ以上人前でカッコ悪くなるのはためらわれたのだ。

 眞井霧子の姿は雨宮詩音にとって、とても優しい許しであった。二人で登壇し、眞井霧子は拡声器でクラスメイトに伝える。その姿は、雨宮詩音に二人で一緒にカッコ悪くなろうと告げるものだった。彼女はカッコ悪さを周りの人間にさらけ出した。それは実行委員である眞井霧子の覚悟であり、二人で交わした約束の終わりであり、そして次の約束に繋げるための再生産であった。

 眞井霧子の行いは許しであり、雨宮詩音を孤独にしないというこころであった。一人で書いていた脚本がクラスメイトに共有され、雨宮詩音は舞台を作っている人間が一人ではないことを思い出した。クラスメイトもまた同じカッコ悪さを背負う人間であったのだと。眞井霧子が与えた許しを受け入れた雨宮詩音は彼女に抱擁した。それは、雨宮詩音が眞井霧子との間にある愛に気付かされたからに他ならない。

 共にいることが生きる上では必要ではないのだとしても、それを選ぶ。彼女たちが交わした約束はあの瞬間果たされたが、また次があるのだとどうして彼女たちは信じることができるのだろう。どういうこころが繋ぎ止めてくれるのだろう。それは舞台を愛していたという純粋な気持ちと、舞台の上に立つことを怖がった臆病な気持ちが同居していた二つの気持ちが、愛という形をもってあの空間にあったからだ。

 人はカッコ悪さを愛することを、昔から知っている。

 夕焼けででんぐり返りをして、お尻を出した子も一等賞だったように。

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