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イラスト寄稿(手乗りまじん)

手乗りまじん
https://twitter.com/goddess_palm

著者コメント(2022/10/10)

 手乗りまじんと申します。私は同人活動自体今回が初めてなのですが、初めて参加させて頂いたのがこの企画で本当に良かったと思っています。独創的な着眼点と熱意に溢れた素晴らしい合同誌の末席に連なる事ができとても嬉しく、また恐縮でもあります。この場をお借りして、主催の皆様をはじめ、この企画に携わられた方々に御礼申し上げます。
 さて、当初私はイラストではなく文章で参加する予定でした。劇場版を見た時、初回はその圧倒的な情報量や鮮烈な表象の数々といった胸を刺す衝撃をあるがままに享受する、いわゆる原的体験をするだけで精一杯だったのですが、単一のシーン内のセリフや諸事物、演出が複数のシーンや本編より更に未来への志向を同時に表している、或いは一見無関係に思われる複数のシーンがある共通の対象を志向しているといった、作品世界の尋常ならざる美しい奥行きを僅かながらも感じ取り、結果として何度も劇場に足を運ぶ事となりました。この映画の素晴らしさは多様な側面から語る事が可能ですが、個人的には内容の密度もさる事ながら、制作側が一回の鑑賞ではまず全ての要素が伝わる事は無く、しかしながら「再演」を重ねるに伴い徐々に観客の私達に現れてくるものは須く私達を悦楽で満たしてくれる、という複雑かつ奇跡的なバランスを湛えた構成のままに世に送り出してくれたという点に得難き価値を感じています。私は現在大学で現象学を専攻している事もあり、初回の鑑賞で得た構想を基にスタァライトを論じてみようと考えていたのですが、検討を重ねた結果やはり現象学の理論的枠組みには上手く合致しないと判断し文章での参加は諦めました。しかし折角の機会だったので気合い入れて突っ走ってみても良かったかも知れません。
 蛇足ですが最後に少しだけ。スタァライトにおいて「舞台は生き物」という言葉がありますが、ジェニファー・バーカーという現象学的映画理論の思想家がメルロ=ポンティの思想に基づいた〈生きられた身体〉としての映画と観客の関係性を論じており、かなり興味深かったです。私達が映画から何を得るかという事はその時の個々人の状態や価値観に多分に依拠していますが、個人的に劇場版スタァライトの場合は鑑賞を重ねる度に心的主観を「再生産」され、それにより同じシーンでも異なる現出を見せてくれるのがまさに生き物と相対しているかのようで楽しいところです。また、メルロ=ポンティは晩年の草稿で〈生きられた身体〉を〈野性の存在〉と言い直しているのですが、すると生きられた身体としての映画はまさしく“wi(l)d-screen”であるというのは、流石に考えすぎでしょうか……?

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