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大場ななと劇場版の時間軸について

yamaneru
https://twitter.com/yamato2000610


序論

 大場なながワイルドスクリーンバロックを始めたのは、舞台少女たちの舞台少女としての死を未来で見てしまったからではないでしょうか。

 特に星見純那の舞台少女としての死が受け入れられなかったのではないでしょうか。

本論

 何故、そのように考えるか説明すると、『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』(以下、総集編)にて舞台少女たちが血に塗れて倒れているシーンが追加されていたからです。

 2019年11月3日に新作劇場版と総集編の制作発表がありました。他アニメの総集編映画は新作劇場版までの繋ぎのために制作されたり、新規ファン獲得のために作られることが多いです。しかしスタァライトは上記の理由に加え、新作劇場版への深みを与えるために制作されたと考えます。総集編はTVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、TV 版)と『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、劇場版)の間に挟まる
形となります。つまり、私の考える時系列は以下のようになります。

私の時間軸の考え
TV版→卒業→それぞれの道へ(それぞれ失敗もしくは挫折する)→総集編→劇場版

 このように総集編と劇場版の大場ななが未来の時間軸から来たと考えるに至った経緯についてスタァライトにおけるループ設定の特殊性から検討していきます。

 スタァライトにおけるループ設定は、あくまで大場ななに対して与えられた個性の一端という認識で、ループ自体がメインテーマというわけではなく、スタァライトをループモノの作品という観点で見る人は少ないと感じます。しかし、総集編ではそのループがキーとなり、物語が展開されています。一般的にループモノの作品では、ある問題を解決するためや、不都合な未来を改変するために同じ時間軸が繰り返され、その過程で主人公が葛藤し成長する様子が描かれます。その場合、ループを脱出すること自体が目的になり、結果としてループを脱出してハッピーエンドを迎えます。

 一方で、スタァライトの場合は目的が異なります。大場なながループしていた理由は、第99回聖翔祭の劇中劇スタァライトの眩しさを忘れられなかったからです。つまり、ただ同じ時間を続けたかったからです。そのスタァライトを演じるまでの約1年間をひたすら繰り返すこと自体を目的として、自ら望んでループを選択しているため、そこから脱出しようとはしていません。ループすること自体が目的になっているため、当然このループに終
わりはありません。しかし、イレギュラーな登場人物、神楽ひかりによって、そのループにもついに終わりがもたらされます。そして、『戯曲 スタァライト』の悲劇の結末は改変され、99期生の物語はキラめきに満ちた新章へと突入します。同時に、大場ななも彼女のことを思う仲間の言葉に励まされ、次の舞台に進むことを決意します。

 ですが、劇場版の大場ななは進路で揉めている99期生メンバーに対して「みんな、しゃべりすぎだよね」と発言したり、進路相談では舞台に立つ方に行くのか、作る方に行くのか悩んでいたりと過去に囚われ、悩んでいる様子でした。また、仲間のおかげで前に進み始めたはずの大場ななは、仲間を攻撃し始めるのです。

 「皆殺しのレヴュー」中に、大場ななは数々の意味深な発言をします。未成年で飲酒経験も強いお酒も飲んだことがないはずなのに「なんだか強いお酒を飲んだみたい」と発言していたり、「私たちもう、死んでるよ」と未来から来たかの様な言動をしています(「私たち」と発言しているので大場ななは、この時点では精神的に死んだように感じていると考えられる)。このことから、ワイルドスクリーンバロックを始めた時点の大場ななは大場ななであるが、愛城華恋達とは違う時間軸の大場ななであると考えます。

 そこで、大場ななが未来から来たと考えると以下に挙げる総集編の追加シーン・カットシーンのおかしな点について説明することができます。

 1つ目は総集編で追加された大場ななの1番初めのセリフの「確かにあの日見たんだ弾けた星のキラめき。待ってたよ」です。このセリフの前半は『星のダイアローグ』の歌詞になりますが、後半のセリフをこの場面で言う意味を考えなければいけません。つまり、「待ってたよ」を誰に向かって言っているのか、ということです。

 これは観客と愛城華恋と神楽ひかりの3者が候補として考えられます。観客が候補である理由は単純にメタ的な発言の可能性があるからです。この作品では稀にキャラクターたちが視聴者に対して発言しているような描写があります。そのため、観客に対してこの映画を見てくれるのを「待ってたよ」という意味合いで発言していると考えられます。次に愛城華恋が候補である理由は大場ななの「待ってたよ」のセリフの前に愛城華恋の口上が差し込まれているため、「待ってたよ」が愛城華恋に対するセリフと考えることができるからです。そして神楽ひかりが候補である理由は、総集編での大場ななが神楽ひかりを転入前から知っているようなセリフをいくつか発しているからです。私は総集編の最後のシーンにて「待ってたよ」と神楽ひかりに対して発言していることから神楽ひかりで確定ではないかと考えます。

 2つ目は「ひかりちゃんが怒るのも無理ないよね」というセリフです。「情熱のレヴュー」が終わった舞台上にて大場ななが神楽ひかりについて言及するのですが、これは時間軸的にあり得ないことなのです。情熱のレヴューは神楽ひかりが転入して来た初日に起きた出来事です。この時点で神楽ひかりと親交のない大場ななが、神楽ひかりについて「ひかりちゃんが怒るのも無理ないよね」と言及することは出来ないのです。

 3つ目は大場ななの描写で、総集編では退学した2 人に触れられていないことです。第99回聖翔祭の劇中劇スタァライトを繰り返すにあたって、TV 版では退学した2人は大切なピースだと考えていたのに、総集編ではカットされています。それは総集編の大場ななにとって、退学した2人はそこまで重要ではなかったということです。

 4つ目は「ありがとう純那ちゃん。あなたが私を救ってくれた。あなたが居てくれたから、私は何度でも繰り返すことが出来た。」というセリフです。これは「絆のレヴュー」終了後に池の前で星見純那と会話した後のシーンのセリフになります。このセリフのおかしな点は「あなたが居てくれたから私は何度でも繰り返すことが出来た」です。TV版の大場ななは、第99回聖翔祭の劇中劇スタァライトの眩しさを忘れられなかったから時間を繰り返していたはずなのに、ここで星見純那に感謝すると時間を繰り返していた理由が星見純那のための様に聞こえてしまいます。

 以上のシーンを考慮すると総集編はTV 版のダイジェストではなく、新規の時間軸であることが分かると思います。

結論

 ここまでのことから、劇場版での大場ななはTV版と地続きの時間軸ではなく、聖翔音楽学園卒業後の大学生時代、もしくは社会人時代の大場ななが地下のオーディションを再度受けて第99回聖翔祭の劇中劇スタァライトに戻った後の時間軸であると考えます。

 そう考えると劇場版の皆殺しのレヴューと「狩りのレヴュー」での様々なセリフの意味が分かると思います。

 例えば、星見純那の「こんななな知らない」のセリフは大場ななが未来から来ているため、星見純那が本当に知らない大場ななであると考えられますし、オーディションではない理由も仲間を成長させるためのレヴューであるので、オーディションではないと考えられます。また、舞台装置の血が甘い理由は、レヴューの舞台を作り上げた大場ななの甘さを表現しているのかも知れません。

 次に、狩りのレヴューで大場ななが星見純那に「そんな言葉じゃ、あの舞台に届かない。君は美しかった、愚かで熱く美しかった。主役になれないと分かっていても愚かしく、がむしゃらに主役に手を伸ばす姿が、眩しかった」というセリフの後に切腹を促すシーンは、未来で星見純那が自身の選択で舞台を降りることを知っているので引導を渡そうとしたのかも知れません(介錯をしようとはしていないため、大場なななりに発破を掛けていた可能性もあります)。その後、狩りのレヴュー中に成長した星見純那を見て大場ななは「私の純那ちゃんじゃない」と叫び敗北してしまいます。

 レヴュー終了後に大場ななは「終わったのかも知れない。私の再演が今。私も私だけの次の舞台に」と言っているため、大場ななは一見99期生の仲間のために動いてはいたが、その真の目的は星見純那が舞台を降りずに主役を目指すように促すことだったかも知れません。

 その結果、星見純那は大学進学の道ではなく、NYミュージカル&ドラマアカデミーに留学という選択を取っております。

 以上のことを考えながら映画を再度視聴すると、大場ななのシーンが、とても感動的・衝撃的に感じることが出来るのではないでしょうか?

 この拙い文章が誰かの心に届いていたら幸いです。

著者コメント(2023/12/19)

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この考察には沢山の余白があります。
劇スを見るたび可能性が広がりますし、他の方考察と組み合わせても面白いと思います。
大場ななという大きな謎が残っているスタァライトはまだまだ飛躍して行くと信じております。
塔を降りた舞台少女達は新しい可能性に向かって歩き出しました。
私も次の「運命の舞台」に出会う為に歩み始めます。
それではまたの機会が逢える事を祈っております。

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