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“Super Star Spectacle” as Bildungsroman

雨野原
https://twitter.com/lainfield


・序章:欧米文学を通したスタァライト “The Tragedy of Starlight”(スタァライトの悲劇)

 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、スタァライト)を初めて観た時に感じた他のアニメーション作品との違いはその悲劇性(Tragedy)にある。なぜ『戯曲 スタァライト』は悲劇なのか? なぜ悲劇は存在するのか?

『スタァライトは、必ず別れる悲劇。』

 父を殺し、母と交わるだろうと予言されるギリシャ悲劇『オイディプス王』のように事前に予言される悲劇がこれまで幾度あっただろう? これはスタァライトがビターな作品に感じられる理由であり、物語の構成で肝となっている。ではなぜ悲劇が必要か。それは悲劇が時にこの世界で最も美しいものになり得るからである。叶わなかった夢は心中で星より眩しく永遠に輝き続ける。私たちの意のままにならない人生とは、いってみれば際限ない暗闇であり、悲劇はこれを強調する。オイディプス王に描かれるのは私たちが生きていく上で恐れるであろう、叶わない夢・報われぬ人生のモチーフである。これは「頑張れば必ず夢は叶う」というテーゼと対置される。悲劇の有するビターさの正体とは、この現実における不条理さである。そして重要なことは、この悲劇なくしてキラめきが成り立たないところにある。悲劇が示唆する際限ない暗闇のお陰で、キラめきは眩しい。1人砂漠で星摘みをするひかりのように、私たちは眩しいキラめきを求めて叶わない夢・報われぬ人生のモチーフを収集するように出来ている(第99期生、ひかりがいなくなった後の華恋の姿を見て『戯曲 スタァライト』への理解が深まっただろう)。

 私たち観客が共感出来るのは、神楽ひかりの短剣ではないだろうか? 映画を観て分かるのは、その剣が本当に胸をなんとか一刺しする程度の長さしかないということだ。2人の夢は叶わないという『戯曲 スタァライト』の悲劇性と同じものをその剣は有している。彼女にとっての悲劇性は、「剣の役割を果たし終えた剣」で戦わなければならないところにあった。なぜなら神楽ひかりもまた「舞台少女の役割を果たし終えた舞台少女」だったからだ。

『We're jesters on heaven's stage.
(我々は神の舞台に立つ道化……)
If I get just one performance, I will play as I please.
(一度きりの舞台なら思うがままに演じるだけさ)』

 と橋の上で話す彼女の姿からは、演劇に関わる意思だけが窺える。それにひかりの立ち姿は見方によっては橋を渡る前にも見える(*1)。彼女がキリン(観客)の用意する列車に乗るのは「華恋の身に何かあった」と思うからである(その原因はひかり自身の退学にあるのだが)。彼女の列車に乗るという行為は他者のために為された。「ワイルドスクリ──ンバロック」(以下、“WSB”)はひかりにとっての「華恋救出劇」(*2)であったわけだが、ひかりが華恋に会う時点で(皮肉にも)その目的の殆どは達成されたことになる。ひかりが華恋に出来たのは、原体験を喚起させるほどのキラめきを浴びせ彼女の剣を折り、「剣の役割を果たし終えた剣」で(辛うじて)トドメを刺すことだけだった。この再生産、華恋の胸から迸ほとばしる血潮の如きポジションゼロは、彼女が演じてきた今までの舞台を想起させる。これによって華恋は『本日、今 この時』も舞台に生きていることがエンディングで明らかになる。重要なのはひかりが「華恋救出劇」を意図したポジションゼロは、華恋だけでなくひかり自身をも「再生産」させたと考えられることだ。なぜなら『スーパー スタァ スペクタクル』(以下、“SSS”)でひかりがあれほどのキラめきを発することが出来たのは、華恋がいてこそなのだ。神楽ひかりの短くなった剣と、愛城華恋の折れた剣はどことなく似ている。剣は最後砂漠に刺さったままだが、これは何を意味するのか? あそこが愛城華恋の心象風景であるなら、「世界で一番空っぽ」な彼女の心に、役目を果たし終えた1本の剣が墓標の如く立っている。これが本作のいう卒業、“子どもではなくなる”ということではないだろうか。ここにはかつてとても眩しいキラめきがあったのだという思い出が、人を前へと進めていく。その奇跡は確かにここにあったのだ。そして私たちはその奇跡を求めて生きている。

『星は何度弾けるだろう』
『スーパー スタァ スペクタクル』(「最後のセリフ」、「再生産のレヴュー」)

という“SSS”の歌詞に即せば、「世界で一番空っぽ」な華恋の心は1つの宇宙であり、その宇宙は砂漠のように何もない、莫大な暗闇に包まれている。砂漠という視覚的に無の存在が、塔をより印象的なものとしている。砂漠の周りは海で囲まれている。おそらくこれは、冒頭の練習でのセリフ、「往かねばならない、あの大海原」だと考えられる。その海を越えた先にひかりがいるのだろう。だが海上に線路はない。それが砂漠(華恋)の空っぽさを一段と際立たせることになる。華恋の空っぽさは私たちと無関係ではない。その空っぽさの正体とは、どう足掻いたところで海に線路は通せない(ひかりとは会えない)という現実の不条理さ、及びそれ故の挫折だ。しかし砂漠には塔がある。この塔こそが道の繋がらない海の向こう(現実)と何かしら関係があるのではないだろうか。そこに星が一度弾け、キラめきを刹那放つ。

 映画では死のモチーフが繰り返される。心の空洞を別の何かで満たすこと——本当に大事なこと(華恋とひかりにとってのスタァライト)——は代替可能なのか? 無理だ。だからこそ華恋に塔から先のレールはない。運命は時にトラウマとして機能し、その人生に挫折をもたらす。華恋とひかりを始めとした第99期生はスタァライトに囚われている悲劇の女神たちである。しかし、この物語は「死」では終わらない。現実という熾烈な世界で生きていく上で「再生産」(新しい列車)がある。

『囚われ、変わらないものはやがて朽ち果て死んでゆく』

 だから腐る前にトマトを食べ、己を燃やさなければならない。神楽ひかりに出来るのは華恋を一刺しして目覚めさせ、自分のボタンに手を掛けることだけだ。でも空へと飛んでいく肩掛けが全く悲劇的ではなく、甲高くファンファーレが鳴り響いているという事実が我々観客を救済へと導いている。それはもはや自決でも悲劇でもない。その短剣が放つキラめきによって、観客は物語がハッピーエンドだと理解するのだ。

『Tragedy may be the most beautiful thing in the world. Cause the dreams didn't make come true is shining in your mind, forever,』(*3)


*1 こうした時系列の不明(狂い方)こそ「ワイルドスクリ──ンバロック」(“WSB”)の醍醐味である。冒頭と結末の連続性や、同時進行で別の物事が進んだり(皆殺しのレヴュー)、暗示や示唆が存在する(駅のホームの“WSB”広告)。

*2 同様に『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』(以下、ロロロ)は華恋にとっての「ひかり救出劇」であるとも言える。

*3 引用みたいに書いた私の言葉よ。(スタァライト感想)

・第1章: アメリカン・ロマンスタァライト

『EVOLUTION IS SO CREATIVE. THAT'S HOW WE GOT GIRAFFES.』

“A Man Without a Country” by Kurt Vonnegut(2007/7/25 NHK 出版)(*4)

 これは去年私が読書中に遭遇したものであるが、特に意味がある訳ではない。(強いて挙げるなら、アメリカ文学とスタァライト(キリン)、という共通項でこの文章は括れるかもしれない。実は映画館での“WSB”以降、「見られてる……キリンに」現象が頻出している(*5)。)
 ここではまずアメリカン・ロマンスとスタァライトの関係性について述べたい。アメリカ文学研究者の越川芳明は

自家撞着するかのような特異な形式ともいえる「リアリスティックな寓話」形式こそ、まさしく「アメリカン・ロマンス」の一大特徴なのである。

越川芳明「『ノルウェイの森』──アメリカン・ロマンスの可能性」
『ユリイカ』21巻, 8号, 1989年, 青土社, pp.188-198

と述べているが、これはスタァライトとも無関係ではないだろう。「リアリスティックな寓話小説」とは

「アメリカン・ロマンス」とは、小説構成的に見ると、あくまでもっともらしい事実の場面と、作者の手によって意図的に歪曲されたり、幻想的につくられた虚構の場面とが、作者の抱く内的必然性(魂の真理)に従って識別しがたいほどに互いを行き来し、さらにそれらが入り交じることになる「境界地帯」としての小説なのだ。

現実から超現実への移行、あるいはその逆の移行を可能にする「中間的」な場面である。(中略)まさしく史実なり個人的な事実に忠実な写実の世界と、真実や寓意の開陳をめざす物語との、ふたつの異なる形式が何の違和感もなく移行しあう「境界地帯」への傾倒を見てとれる。つまり、まったくの現実でもなく、かといってまったくの幻想でもない、むしろ中間的ともいいうるようなあの場こそ、まさしくリアリズム小説と寓話とが融合する「アメリカン・ロマンス」を象徴的に示唆するものだったのだ。

越川芳明「『ノルウェイの森』──アメリカン・ロマンスの可能性」
『ユリイカ』21巻, 8号, 1989年, 青土社, pp.188-198

 スタァライトでは、幻想的な舞台装置が「舞台少女の抱く内的必然性(魂の真理)」にしたがってレヴューとして顕れる。このような共通点から、次章では実際にアメリカ文学とスタァライトを比較考察していく。


*4 彼の遺作(作家としての最後のセリフ)です。NY Times紙のベストセラーになったらしい。

*5 ふと画面を見たら映像が、スタァライト上映館のショッピングモールの車の展示会にでかぬいぐるみが、駐車場にフィギュアが落ちているなどキリンが出没しまくると友人に話すと「駐車場にキリンのフィギュア?」と言われ、まあ確かにこれはヤバイよなと再認識した。でもこれを読んでいる貴方も映画視聴後にこうなりましたよね? “The giraffe is watching you.”ということだがこれは“The tower is watching you.”とも言えるだろう。バルトが言うようにいつ何時でも「塔はつねにそこにある」親しい友人[→(*12)]」なのだ。

・第2章:“Super Star Spectacle” as Bildungsroman

1.Hardboiled of Hikari Kagura

『An act is all there is. There isn't anything else. In here──” he tapped his chest with the lighter ──“there isn't anything.』

“THE LONG GOODBYE” by RAYMOND CHANDLER from “LATER NOVELS AND OTHER WRITINGS”(1995/10/1 THE LIBERTY OF AMERICA出版)

 上記は引用作品ラストシーンでテリーという人物が探偵であるマーロウに語る、いわば「最後のセリフ」だ。私の結論から言わせて頂くと、この『THE LONG GOODBYE』という作品は“SSS”と相通じるところがある(どころか同じである)。そのことを知る為にも、まず引用箇所を訳してみる。

「何もかもただの演技だ。何にもない、私は──」
彼はライターで胸をとんとんと叩いた。「空っぽだ。」

 このセリフ、聞き覚えがないだろうか? そう、愛城華恋と驚くほど似ているのだ。最初に『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観た時はそのことに全く気が付かなかった。だが今、翻訳した2行の文章を読み直せば読み直すほど、その言葉は愛城華恋自身のものとして聴こえてくる。なぜこのような不思議な一致──1953年にアメリカで出版されたハードボイルド小説(ミステリー)と去年日本で上映されたアニメ映画での同一──があり得るのだろうか? それはおそらく、『THE LONG GOODBYE』でのマーロウとテリーの関係性と役割が、ある部分においては「スタァライト」におけるひかりと華恋と同じだからだろう。まず彼ら、彼女らは互いの中に自分自身を見ているのではないか。

 『THE LONG GOODBYE』でマーロウはテリーの弱さを自分のものとして見ているところがある。冒頭でマーロウがヴィクターズで酔いつぶれているテリーを放っておけないのも、それが自分自身であるからだろう(そのことは初めから明らかにされているわけではないが)。「マーロウ」のハードボイルドさは、ラストシーンでテリーが彼自身の一番弱い所を曝け出した時に最も強調される。つまりマーロウはテリーに対しどこまでもタフでクールなのだ。そこにある言葉は必要最小限の短いもので、嘲りと皮肉も込められている。ハードボイルドやマーロウについて語るには、ハードボイルドでないものやテリーについて語る方が分かりやすいかもしれない。テリーは一筋の涙を流すが、マーロウは流さない。もしマーロウがそこで優しい言葉を彼に投げかけ、一緒に涙を流したら、それは自分に同情し自身を甘やかすことになる。もしそんなことをしてしまったら、マーロウはこの世界で生きていけないだろう。そして実際にテリーは(マイオラノスという別人となることで)比喩的に死んでしまう。今の文章をマーロウをひかりに、テリーを華恋に置き換えればひかりにハードボイルドな一面があることが分かってこないだろうか。

 スタァライトの場合も、愛城華恋、舞台少女の死がある。死因は彼女が空っぽで何もないからだ。もちろんそのことはテリーにも共通している。ではマーロウは空っぽではないのだろうか? この疑問をひかりにあてはめると愚問になりかねない。というのも彼女はロンドンのレヴューで敗北し、キラめきを失い空っぽであったと言えるからだ。トマトを食らうというのはその空腹を満たすメタファーである。華恋が空っぽなのは過去を燃やさないか
らだ。過去を燃やさず固執するのは、それがあまりにも重要で、忘れ難いものだからだ。過去を忘れることが出来ないというのは、トラウマになっているとも考えられるだろう。次の駅に進むためには、今いる駅のホームから次の列車に乗らなければならない。華恋はそのことは分かっているだろう。だが進路調査票に次の駅名を書くことが出来ないのは、そこが行きたいところではないからだ。なぜならそこはひかりと一緒にあの日のスタァライトを、という望みと関係してるように彼女には思えないからだろう。

 『THE LONG GOODBYE』は、一見すると「スタァライト」とほぼ対極に位置している。しかし、実際には両者は同質である。強いて両者の違いを挙げるならば、それは『THE LONG GOODBYE』が男と男の物語であるのに対し、スタァライトが女と女の物語であるということだ。しかしこれは同性同士という観点から見てしまえば言動を含め全く同じである。これは現代日本で当時のアメリカのハードボイルドさと同質のものを示す場合、男たちよりも女たちの方が向いているということなのかもしれない。また男同士でなく女同士にすることで、初見で私が気付かなかったように、そのハードボイルドさはある種の秘匿性を獲得する。

 スタァライトは「可愛い女の子たちが出てくる」という点では他のメジャーなアニメ作品と同じ枠で括れるが、正直これだけでこのコンテンツの魅力を十全に説明するには余りにも言葉が足りない。登場人物たちはたしかに可憐であるが、初めに私が問題提起したようにオイディプス王のような悲劇性を有しているし、ここで言及するようにある種のハードボイルドさがある。スタァライトの面白さは可愛い女の子たちが、その可憐さだけに留まらない物語へとシームレスに移行していくという、「甘いチョコだと思って食べたらビターな美味しさで癖になる」ところにあるのではないか。甘美な香りとビターな味わいが共在する、人を選ぶような面白さが、この作品のカルト的な人気として現れロングランという成功を収めたのだろう。

 ハードボイルドについて話を戻すと、おそらく私もある手順(*6)を踏まなければこの関係性には気付かなかっただろう。

「でもあのかた、心が見えませんわ」

と天堂真矢が言うように、個人的にはひかり1 人だけだとそこまで心情が読めず、他のキャラのように好意を持つのが容易ではない。しかし彼女は華恋が関係する時は感情を見せる。彼女に好意を抱くのはおそらく華恋という1 人のフィルターを通さないと難しいのではないか。それが映画を通すと、こんなに魅力に溢れていたのかと再認識することになる(*7)。

 ひかりは幼少期からずっとこんな感じで生きてきた気がする。海外生活を経験しているという点ではクロディーヌ(彼女にとっては日本が海外) や、高校卒業後のなな・純那も同じだが、高校生の時点で1 人で海外生活とは(敵わないもの、ひかりの筋金入りさには)。言葉でなく行動で語る、1 人で生きていくというところが、探偵マーロウにそっくりだ。電話も駄目という徹底ぶりは「会いたくなっちゃう」からだろうが、電話だけで会いたくなってしまうような人はそもそもロンドンで一人暮らしはしないだろう。彼女の根っこにあるこれらの「非凡さ」は自主退学にも見受けられる。この特質と鋭敏な感性(後述) は舞台女優になるのにふさわしい強みであるし、それを彼女は英断(英国だけに)によってロンドンという地で磨き上げ、研ぎ澄ますことで才能を開花させる。幼少期の彼女は華恋という「他者の放つキラめき」と、自身が舞台少女になり放つであろう「主体的なキラめき」との2つに板挟みされる。彼女は鋭いことにこれら2つのキラめきは同時に成り立たない、相反したものだと直感しているのではないかと私は思う。というのも「主体的なキラめき」とは自分が最もキラめいているという自負の下に成り立っているのではないかと私は考えるからだ(特に舞台人はそのような気がする)。私たちが華恋を通して度々感じることになるひかりの「不在による悲しみ」は(驚くことに)ひかりからすれば幼い頃に「決めた。私、スタァになるまで帰ってこない。華恋にも会わない」と自ら選択し乗り越えたことである。これほどにこの作品はハードボイルドさを有しているのである。


*6 おそらく私もある手順を踏まなければこの関係性には気付かなかっただろう。これについては長くなるので感想にでも書き連ねる。

*7 ベストシーン、ラストのあの笑顔では??

2.What's the meaning of “WSB”?

 本来であれば(華恋のように) 私たちが大人になるに従って行うことになる、あの頃には戻れないし、あの頃のままでもいられないという青春期との決別(通過儀礼)が、ひかりの場合は幼少期に既に為されている。そしてその理由は「自身がキラめきを放つ(舞台女優になる)為」である。だから“SSS”が「ひかりが自身のキラめきで華恋を貫く」構成になっているのではないか。“SSS”とは華恋が高校を卒業し大人になる上で不可欠な通過儀礼であるというのが私の考えだ。この文脈で

「なんなのよ、ワイルドスクリ──ンバロックって」

とひかりがキリン(観客)にした質問に答えるならば、“WSB”とは我々観客が用意した「第99期生が高校を卒業し大人になる上で不可欠な通過儀礼」である。

 これらは「私がスタァライトされた」理由を的確に言い表している。つまり観客の私には “WSB”という「通過儀礼」が必要であり、その意味で私はまだ「大人」ではなかったということだ。「最後のセリフ」で涙を流す華恋や観客に対し、ひかりは笑っている。これがなんとも象徴的だ。ひかりは華恋の決別を温かく見守っている。そしてこの決別には、幼い頃に華恋が思い描いていたひかりとのスタァライトも含まれている。“SSS”で描かれるあまりに個人的な通過儀礼は“WSB”という俯瞰的視野で眺望した際、ある種の普遍性を帯び「第99 期生の通過儀礼」となる。その証拠にひかりが言う、

「ポジションゼロ!」

というセリフは劇中唯一のものであり、そのタイミングで全員が舞台少女の上掛けを自ら空へ投げる。この光景は卒業生が学校の帽子を空へと舞い上げるのに相通じるところがある。
 

3.Bildungs(Romance


 ビルドゥングスロマン(Bildungsroman)とは、通過儀礼について書かれた謂わば成長小説である。ビルドゥングスロマンによくあるパターンの1つが『THE LONG GOODBYE』にみられるような、自身の中にある弱さを他者が持ち合わせ代弁するものである。この作品でのテリーの弱さは、マーロウの有する弱さでもある。その同質の弱さを以て2人は親交を築き上げ、そしてテリー(という自身の弱さの具現化)との決別により、マーロウは更に一回りタフでストイックになる。決別の仕方はその弱さの種類によって異なるが、最悪の場合それはある人物の死として描かれることになる。同じように愛城華恋の有する弱さは第99期生や私たちの有する弱さでもある。私たち観客はある意味では、愛城華恋と同じように行くべき場所や立つべき舞台を持たない。『THE LONG GOODBYE』と“WSB”という通過儀礼で登場する弱さの1つが「空っぽな人間」だ。この空虚さが私たち観客と愛城華恋とを結び付けている。

 ビルドゥングスロマンと似て非なるものがおそらくロマンスといわれる恋愛物語だろう。この2つは共通部分も少なくないが、2人の関係性で考えた際に対置的なものとなる。なぜならロマンスが結ばれる2人をゴールとするのに対し、ビルドゥングスロマンは自身の成長をゴールとするからだ。つまりビルドゥングスロマンはロマンスの一歩先(関係の破綻)をゴール地点としているというのが私の考えだ(無論どちらが優れているという話ではない)。このような観点から見直すと(あくまで個人的にだが)「魂のレヴュー」→“SSS”という順番に頷ける。真矢は己を「空っぽの神の器」だと自負するが、この空虚さは華恋と共通している。違うのは相方のクロディーヌが『燃えながらともに堕ちてゆく炎』(ロマンス)として真矢の空虚さ(「血肉の通わぬ憐れなまぼろし」)を否定するところにある(*8)。


*8 内田樹『村上春樹の系譜と構造』内田樹の研究室、2017、 http://blog.tatsuru.com/2017/05/14_1806.html
ビルドゥングスロマンの考察は内田樹氏の記事から影響を受け、内田樹による村上春樹の考察を、スタァライトへと類比し執筆した。

4.“The Hollow Tower”(塔とその空虚さ)

『塔を特徴づけているのが、ひょろ長いその形であり、そのすかし彫りの材料である以上、誰もそこに閉じこもることはできないから。一体どうして、空虚の中に閉じこもることができるだろうか?』(*9)

ロラン・バルト「エッフェル塔」(ちくま学芸文庫 1997/6/10)

 本節ではロラン・バルトのエッフェル塔への考察を中心に取り上げたい。なぜならスタァライトの東京タワーも塔であるという点でこの考察と関係しているからである。彼は

『事実においてこの塔は、何ものでもないのである。』(*9)

 と言及している。私は第1章で「世界で一番空っぽな華恋の心象風景は砂漠」と書いた。そして、「砂漠の存在が塔を象徴的且つ印象的なものとしている」。その塔さえ「何ものでもない」というのだ。つまり華恋の心象風景では、無の存在が「何ものでもないこと」をより象徴的且つ印象的なものにするという、二重化された塔の空虚さが描かれている。華恋についてしばしば言われるのが、彼女のあまりに主人公然とした前向きな明るさ、(誤解を恐れずに言い換えるなら)その非人間性である。「もう別人!」と中学時代のクラスメイトが舞台上での華恋を言うのは見方によっては当然である。例えば「魂のレヴュー」の真矢のようにクレオパトラを演じれば、役に寄せることで口調・動き・外見などの演者の個性はある部分まで消え去ることになるのではないだろうか。そこでは役の記号性が強調され、そうでないものは縮小される。観客は天堂真矢が自ら強調する役の記号性を通して、彼女という舞台人に迫り理解を深めることになるのだ(しかしクロディーヌが見たいのはそこではない、縮小される個人について、彼女らしさ、天堂真矢という自己を問題にしている)。そのような演劇論を含んだつもりで華恋の同級生は「華恋じゃないみたいなんだもん、舞台の上だと」と言ったのだろうか?

 愛城華恋の世界を俯瞰・眺望しようと砂漠にある塔に登ったとしたら、人はその一面の空っぽさに愕然とするに違いない。特に露崎まひる的見地からすれば「あれほどのキラめきで自分を虜にした彼女の中身がなぜ何もないのか」を考えずにはいられないだろう。塔という内側から愛城華恋を眺めた時に分かるのは、そこには本当に「何にもない」ということだ。何もない砂漠の俯瞰・眺望は果てしなく無意味さを強調するという意味しか持たない。もちろん他に塔の役割はあるに違いない。東京タワーをはじめとする塔の持つ役割の1つがその高さであるが、スタァライトではこの高さは落下のモチーフとして描かれる。塔からの落下が意味するのは一般的には死であるが、この作品の死は生と繋がっている(アタシ再生産)。作中においてしばしばこの塔は横に傾き橋として機能するが、この時東京タワーは華恋とひかりとを結び付けている。バルトが「エッフェル塔」で言うように

『橋は絆の象徴であり、それが複数になると人間の象徴そのものになる』
『エッフェル塔以外のすべての記念碑が、なんらかの使用目的を持っていたのに対して、エッフェル塔だけは観光の対象以外のなにものでもなかった。この塔の空虚さそのものが、この塔を象徴に指名したのである。』

ロラン・バルト「エッフェル塔」(ちくま学芸文庫 1997/6/10)

という複数文は、空虚さという共通点から「愛城華恋の空虚さそのものが、愛城華恋を“WSB”の象徴に指名した」と読めないだろうか。本作を観ることで私たちは「愛城華恋が有する愛城華恋的空虚さ」を私たち自身の中に再発見することになる。思うに、この空虚さの正体はキラめきである。この2つは対置の関係であると同時にワンセットである。第1章で言及した悲劇性と同じように、私たちは空っぽだからこそキラめきを眩しく感じることが出来る。もし私が“SSS”の華恋にセリフを書くならそれは「終わらないで」だ。彼女はひかりのキラめきで貫かれ涙を流すあの瞬間、無限と思われるかのような有限性の中でおそらくこの言葉を繰り返している。終わらないで、終わらないでほしい、この光景がずっと続いてくれ、ひかりとずっと一緒にいさせてくれ、やっと掴んだこの手を離さないでくれ、まだ自分と一緒に演じてくれ、数多の役を2人で──。華恋自身もこの瞬間が有限であることが分かっていて、終劇の到来を予期している。彼女がこうしてひかりとレヴューが出来るのは「今、この時」しかない。なぜなら華恋は自身で選択した自身の色味を帯びた唯一の列車に乗っているからだ。華恋とひかりは同一人物ではないのだから、同じ列車には乗っていない。華恋には華恋の運命へと進む列車があり、ひかりにはひかりの運命へと進む列車がある。一度動き出した列車(人生)は止まることが出来ない。今この瞬間も、列車はレールの上を走っている。この運命は走り続ける。決して幼少期の2人には、「あの頃には戻れない」のだ。列車の景色はどんどん速度を上げ、あの頃の2人の約束から遠く離れていく。そこで私たちは瞬間瞬間、刹那的なキラめきを目にする。ところが車窓から目にした一瞬のキラめきは、次に目を開けた時には遠く彼方へと消えてしまっている。私たちにはそれを取り戻す術などない。人は有限だから無限に思いを馳せるのであり、そのことを知っていればこそ、無限は心中に存在しうるのだ。それは楽曲のリフレインのように永遠を感じさせる。私がスタァライトされたのは、私もまた空っぽであったからなのだ。


*9 (フォロワーさんの推薦で知りました。まさか劇ス卒論でロラン・バルトが出てくるとは。急に大学の卒論レベルのクオリティになった気がします。ありがとうございます、勉強になりました。)

・後述

 なぜ『THE LONG GOODBYE』と“WSB”をまとめようと思ったかの経緯を書いた方が面白いと考えたのでここでまとめる。

  1. 両作品が個人的お気に入り

  2. 私の好きなコンテンツを全部スタァライトに“演じて”貰えばいいのでは(強欲)と閃く

  3. 神楽ひかりのハードボイルドさに気付く
    (2に思い当たったのは昨年9月5日。私は本作を10回劇場で鑑賞したが、この日はおそらく折り返し地点を過ぎた辺りだ。最初は「好きな作品を好きな作品が演じれば楽しさ2 乗のハッピーセットでは」と安直さ100%の試みだったが、引用したセリフの箇所がきっかけで同じであることに気付いたわけだ。つまり「テリー・レノックス=愛城華恋、フィリップ・マーロウ=神楽ひかり」。ひかりはハンフリー・ボガートみたいにtrench coat(Aquascutum)を着て英語で演じると尚良いとされる。3は本節タイトルでもある「神楽ひかりのハードボイルドさ」についてだが、これは本卒業論文の執筆にあたり自覚した。運営の皆様ありがとうございます。)

 次点でハードボイルド適性が高いと考えられるのは再演を見事成し遂げた大場ななであるが、彼女の孤独のなり方は結果的であるのに対し、ひかりは意識的である。また、ひかりと比べれば切腹を迫るなど女々しい。さすが星見原理主義者。もしかすると一周回って(ロンドだけに)男らしい行為かもしれないが(軍服が似合う)。“WSB”の時空の歪みは大場ななの再演と相通じるところがあるがその共通性は彼女の“WSB”での差別化された立ち振舞いへと繋がる。「知らなかった。ななって、こんな大きいのに、怖がりで泣き虫で。子どもみたい」と純那が言うシーンがあるが、これは慧眼である。彼女の「再演」は「通過儀礼」から遠い行いである。これは『RE:CREATE』でなながひかりに敗北した理由にもなり得るだろう。大場ななの魅力は「ハードボイルド」と「ある種の純粋な幼さ」という本来であれば両立出来そうにないギャップ(キャラクター性)にこそあると私は考えているが、これは先ほど言及した「幼少期の頃に華恋が思い描いていたひかりとの運命」のようなロマンを有しているし、このようなロマンによって私たちは生かされてもいる。このような大場ななの両義性は彼女の有する2 つの刀や、筆跡(「ロロロ」パンフ参照)、表情にも表れているのではないか。私はこの二刀流は諸刃の剣だと考えている。彼女は誰よりも強く固い反面、誰よりも弱く柔らかい。「皆殺しのレヴュー」で短剣で皆(ひかり以外)を先導し、長剣のある車両では華恋と話しているのも象徴的だ。「ある種の純粋な幼さ」はとても美しいキラめきではあるが、再演とは同じ駅に留まることであり、次の駅を持たない。謂わば終点でもある(ということにななはおそらく再演を通して気付いている)。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト -The LIVE-#3 Growth』では黒い衣装に身を包んだ「もう1人の自分」とそれぞれが対峙するレヴューがあったが、華恋やななにとってはこれらが影として機能する気がする。またこの短剣は純那とのレヴューでは先ほど言及した切腹での小道具としても用意されるが、前述した文脈でこのシーンを読み取ると、なな自身の抱いていた純那への一義的な理想像の死と解釈出来るし、純那自身の抱く純粋なロマンは自ら首を絞めていることを暗喩した切腹とも解釈出来る。「夢に縋り霞を喰え」というペチカ(『ペン:力:刀』)の歌詞は自罰的にも聴こえる。このようにななを通して純那を見ると、彼女の美点・強さが良く分かる。面白いのはななとひかりの場合レヴューが2回あるが、その際彼女たちは正反対の役と結果を演じていることだ。これは彼女たちの両義性やレヴューの循環を示唆しているのではないか。今回のレヴューは総じて誰かに勝つことが目的ではない。全員のレヴューはそれぞれの持つ強さと弱さを示す。例えばななの強さは純那の弱さを引き出し、純那の強さはななの弱さを引き出す。つまり大場の弱さに比例して純那は強さを見せる。同じことがおそらく全員に言えるだろう。かれひかの破綻した関係性はまひるという舞台女優によって補完されるが、この時に考慮したいのはまひるの今作での優位性が前作での華恋とのレヴューによってもたらされていることだ。SCC(「SPACE CRAZY CUP」)はまひるによる恩返しであり決意表明の舞台であるといえるだろう。

著者コメント(2022/10/10)

 皆さん始めまして、雨野原です。夏にスタァライトされて以来「卒論は劇スでも書けたな」
と思っていたので正にタイムリーな企画でした。運営の皆様ありがとうございます。まさか卒論を2年連続で書くことになるとは。教授から指摘された卒論形式もここでリベンジとなって報われました。が、文字を書くのが下手で笑うしかない。文章チェックをして頂いた月嶋ぽらる様、いのこり様、りーち様、さぼてんぐ様には頭が上がりません。本当にありがとうございます。心温まる感想を通して自分の書いた文章を見返すと、鳥肌が立ちました(自惚れ)。自分の書いたもので感想をもらうのは卒論以外は初めてレベルなので、本当に有難い限りです!
 なぜ本作がこんなにも私に“hit the nerve”したか、多少答えが出せたのではないかと思います。少しでもあの感動が伝われば幸いです。

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