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猫とジゴロ 第六十二話

「遠藤さん」と井口さんは言っていた。サイコパス野郎の息子の方だったら「遠藤くん」と呼ぶはずだ、しかし遠藤さん、つまり父親の方は地元の名士だったのか。アキラは立派な建築物である遠藤邸を、再び頭の中で構築していた。フランク・ロイド・ライト程有名ではないけれど、かなり名の通った建築家によるものだ、と主人は言っていた。鉄平が遠藤さんと歩いていた、と井口さんは言っていた。憶測が憶測を呼び、嫌な妄想がひっきりなしに続いた。

アキラは、はたと思った。段々とではあるが、接する人の後ろに見えていた色付きのベールが消えていくような気がしていた。ランニングに向かう男性は焦げ茶色だったが、マンションの外壁のタイルにカモフラージュされてよく見えなかったし、井口さんのベールも初秋の紅葉の黄土色で、同じく紅葉に色づく公園の景色と溶け込んでしまってよく見えなかった。ベールの色が意味するところが解らなければ、それは全く意味のないもので終わってしまう。一体、色の意味する所は何なのか、こればかりは誰に相談すれば良いのか解らなかった。

このまま遠藤邸に押しかけるしかないのか、かなり迷った。こんな雪隠詰めの時にはアキラの直感力がとても役に立つことが多かったが、今回ばかりは色々なハプニングが重なり、とても閃くことがない。いや、ランニングに向かう男性とのやり取りにせよ、井口さんとの出会いにせよ、確かに閃きがあった。でも、もはやこれまで。アキラは首を垂れて池の水面を眺めていた。アキラはゆっくりとスマホを取り出し、マダムと斉藤さんのいる松濤の福六園邸に電話をかけた。斉藤さんが出てこう捲し立てている「アキラさん大変です、ユリちゃんがお庭づたいに表に出て行ってしまいました。マダムはユリちゃんを探しに外に飛び出て行ってしまいました。アキラさん、それからアキラさん宛に茶封筒が届いてます。高橋様と宛名が書いてあるだけで誰からの手紙かも解らないし、切手さえ貼られておりません。斎藤は何か、よろしくない考えが頭をよぎります」「斎藤さんよ、こっちでも何か面倒なことが起こっている。俺の小さな脳みそじゃとてもとても解決しそうにない。俺は今、公園のベンチでとっ散らかった事柄を整理しようとしている」「アキラさん、マダムとお話ししてみては如何でしょうか?」「そうだね、今のマダムはなかなかの聡明な女性だ。鮮やかな戦術を練る回転のいい頭と強靭な精神力、もちろん行動力も以前のマダムからは想像出来ないくらいに増している。すっかり立場が逆転しちまったみたいだ」「アキラさんの置かれている立場が全て、こう、くっきりと見えるわけではないので、斎藤ももどかしい所ですが、アキラさん、どうです、とりあえずこちらに帰って一息ついてはいかがでしょうか?下手の長考、休むに似たり、とも申しますし」

俺は電話を切って、もう一度考えた。井口さんにもう少し、鉄平のことを聞こうと公園の事務所まで戻ってみた。井口さんは誰かと話している。アキラは例の弁天様の一件から本当に視力が格段に悪くなって、とてもどんな人物と話しているのか解らなかった。もう少し近づこうとした瞬間のことだ。井口さんが何か叫んで倒れ込んでいる。あたりに真っ赤な血が飛び散っているのがかろうじてわかったが、何が起きたのか解らなかった。井口さんと話していた、いや話しているように見えたその相手の人物もよく解らない。こちらを一瞥すると、さっと踵を返し走り去ってしまった。井口さんが倒れこんでいる事務所前まで来て、俺は本当にこっちの頭がどうにかなっちまいそうな位に愕然として、立ちすくむしかなかった。

井口さんは喉笛を刃物か何かで切り付けられて、頸動脈からは大量の血液が噴き出していた。俺は井口さんの首の辺りを手で覆いながら、何とか血液が噴き出すのを抑えようとしていた。しかし井口さんの目はカッと見開いたまま、動きを停止していた。俺は井口さんの亡骸を抱きしめて「そんなことってあるかよ。何でだよ」とか細い声でつぶやいた。知り合ったその日に、井口さんは逝ってしまった。不条理な暴力で。俺は110番に電話をかけて事の顛末を話した。「近くの警官がすぐに駆けつけますから落ち着いて待ってて下さい。それから救急車も向かってます」。

結局、井口さんの口からナンパのテクニックを教わることはなかった。

井口さんの黄土色のベールは、やがて静かに細かい粒子となり、風とともに消えていった。