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猫とジゴロ 第六十一話

アキラは呆然として暫く頭が働かない状態に陥っていた。ふらふらと歩いてやっと近所の大きな公園にたどり着いた。公園は朝の7時から開園と書いてあったが、何故かもう入り口の扉は開いていたので、これ幸いと公園の中へ歩みを進めた。そこは、湧水の調べ物をしていた時に記載されていた公園だったが、今は湧水の話などゆっくりと話している場合ではなかった。暫く歩くと白い鷺が公園内を流れる小川でヌマエビだかザリガニだか、とにかく餌を漁っているのに出くわした。

冷静にならねば、アキラは目についたベンチに腰を下ろした。もう一度鉄平の携帯にかけてみた。アキラはますます混乱する事になる。なんと今度は「コノバンゴウハゲンザイツカワレテオリマセン」という人口音声が繰り返すだけだった。鎌倉に「星野さん」は一体何人住んでいるのだろうか。何かあれば騒ぎ出すのはやはり親族だろう。さっきのスポーツウェアの男性が「物騒な事には関わりたくない」と言っていたように、奴の務める会社だってゴシップになりそうな事柄には「臭いものには蓋」という「処理」しかしないであろう。スマホのアプリで昔ながらの電話帳みたいなものがあればなあ、などと思ったが、そうだ104はどうだろうと閃いた。しかし、住所も分からないし、名前、つまり鉄平の親父さんが星野家の主人であろうし、俺は鉄平の親父さんの名前なんて聞いたこともない。八方塞がりで、文字通りアキラは両手で頭を抱えた。

考えろ考えろ考えろ。アキラは自分で自分自身に葉っぱをかけた。鉄平と過ごしたほんの数週間の出来事を思い出している。鉄平は料理がうまくて、昼寝が好きで、散歩が好きで、公園が好きだった。待てよ。公園が好きで確か「肥後細川庭園」、鉄平曰くだが旧・「新江戸川公園」のことを熱弁していたっけ。スマホでググる、「本日営業9時から」まだかなり時間があるし、その間に何かできる事はないか熟考した。また閃いた。大体近くにこんなデカくて立派な公園があるのだから、公園好きの鉄平なら必ず一度は訪れているはずだ。俺は園内を暫く歩きながら、園内の植物を見て回った。「爺ちゃんなら一発で、これは何の木だって言い当てることが出来ただろうな」そんな考えが出るほどアキラは平静を取り戻しつつあった。公園の真ん中あたりに事務所らしきものがあった。この公園は夜の間はきちんと扉を閉めて、いわゆるホームレスなどが園内で好き勝手にテントを貼るなんてことを拒んでいるようだった。事務所に詰めている管理人さんがいるはずだ。時間がくれば門を開けたり閉めたりする人間が必要だから。

事務所の扉は開いていたが、「のれん」のような布が垂れ下がっていて、室内の様子が丸見えにならないようになっていた。アキラは思い切って声をかけてみた。「すみません。どなたかいらっしゃいますか?」返事はない。もう一度「すみません」と言いかけた時、アキラの背後から、ジーンズにフランネルシャツ、それに青いジャンパーとキャップという姿の初老の男性が現れた。「はいはい、何か御用でしょうか?」首からネームプレートを下げていて井口さんという名前だと分かった。「あの、井口さん、ですよね。すみません、ちょっと人を探していて」「ああ、だったらもう少し時間をずらしてきた方が良いよ。こんな早朝に公園にやって来るのは、楽器を練習する暇なお年寄りとか、グループで太極拳をやっているやはりお年寄りしかいないからね。で、どんな人を探しているの?」アキラは祈るような気持ちで続けた「それが、まあ年恰好は俺と同じくらいで、髪の毛なんかは俺より長くてツーブロック、って言っても分からないかなあ。とにかくきちんとした中年の男です。公園が好きな奴で、この近くに住んでます。多分この公園にも何度も訪れている筈だと思って」井口さんは考えている。「うーん中年の男性というと、何人か気さくに話しかけてくる方はいるね。名前とか分からないの?」「星野です。星野鉄平」「おうおう、星野くんね。しょっちゅう来てたけど、ここ数日は見かけないなあ」「井口さんは良い人に見えるから俺も甘えさせてもらうけど、もう少しの時間をくれませんか?星野は何かトラブルに巻き込まれたみたいなんです。井口さんは、何か彼に変わった様子が見受けられた、なんて記憶はありませんでしたか?」「よせやい、俺はそんなに良い人でもない」井口さんは照れくさいのかキャップを被り直して咳払いを一つしてから続けた。「でも星野くんは特に変わった様子もなかったし、何だか良いことがあったってニコニコ笑ってたけどねえ」アキラは考えていた、良いことがあったって、多分ユリを救護できたことの事だとは推測がつく、けれどもその先に何かが起こったんだろう。「井口さん携帯は持っていらっしゃいますか?良かったらその個人的に教えていただく事はできませんか?」「何だい兄ちゃん、お前さんはそんな調子で女の子の電話番号を聞くのかい?もうちょっと知恵を絞れよ」「はあ、まあナンパのテクニックは後日ゆっくりと教えてもらうとして、その、井口さんの電話番号を」「良いよ」井口さんは二つ返事で数字を読み上げてくれた。俺のはこれです。俺はスマホの画面を見せて、けれど井口さんは写真を撮るなんて事はせず、ご丁寧に番号を入力している。まあ井口さんのはガラケーだけど。

「なんか思い出したら、本当に些細なことでも何でも良いんです。電話とかショートメールとか送って下さい」アキラは深々と頭を下げてから、肥後細川庭園に向かおうとした。その時井口さんが呼び止めるように言った「お兄さん、何だか血の巡りが悪そうだ。ちょっとこっちに来な」井口さんは俺を抱きしめて、しきりに身体中をさすってくれている。「手当って言ってね。そう傷だの負ったときにするあの手当てと一緒だよ。ちゃんと定期的に運動しているかい。俺なんかさ高血圧に糖尿病、おまけに肺には癌が巣食ってる」井口さんは本当に良い人そうだったし、もっと話していたかったが「すみません、俺はそろそろ行きます」と言って立ち去ろうとしていた時だ「あ、お兄さんちょっと待った」俺は色目気だって振り向いた「あ、何か思い当たることありましたか?」

「猫のことをしきりに言っていたねえ。この近くに遠藤さんっていう近所では有名な名士がいるんだけど、その人と歩いているのを見かけたね」

遠藤さんって、まさかあの。

アキラの頭の中では、最悪のシナリオの一ページ目が開かれていた。