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猫とジゴロ 第三十三話

俺は徹平を自宅マンションに送ってから、そそくさとショートーへの帰路についた。時刻は12時をとうにまわっていた。ガレージにデイヴィッドを停めて玄関の鍵で扉を開ける。誰もいない。人の気配がしない。どうしちまったんだろう。リビングにもダイニングにも人の気配がしなかった。吾郎という存在がこの家の中枢をなしていたという事実を突きつけられている感じがした。今日は綺麗な満月だなあ。俺は自室に駆け上がると再び『ムーン・リヴァー』をつま弾いていた。何とか週末まで乗り切った。俺は疲れと安堵の気持ち、さらに吾郎への弔いの気持ちも重なり強い眠気に襲われた。

翌朝、マダムと久しぶりにダイニングテーブルを囲んでいる。斎藤さんも遠巻きに不都合がないか心配している様子だ。いつもながらの完璧なイングリッシュ・ブレックファーストだ。マダムの目の前には目玉焼きではなくエッグヴェネディクトが並んでいる。「この家に来てからあなたも随分とソフィスティケイトされたんじゃないかしら。身だしなみや立居振る舞いが」「そうかねえ、俺にはよく分からないけど」ここん家の朝食には必ず果物がついてくる。今日はハシリの桃だ。丁寧に皮を剥いて(恐らく手で剥いたような美しい仕上がりになっていた)スライスしてある。「果物は体を冷やすから夜には食べないのよ」マダムは昨日のこと憶えているのだろうか。「夕べは酷いことを沢山言った。申し訳なく思う。」マダムは言った「私はぐうの音も出なかった。あなたが真っ向から正論をかざして来たからよ。お前なんぞは一皮剥けば腐肉の塊だと言わんばかりだったもの、流石に堪えたわ。でも私にあれだけの説教を出来たのは、親や教師、上司やこれはまあ余計だけれど執事などなど、今まで私が世話になった人間を思い返してもあなた以外居なかった。更に言うならば、お世話にもなっていない年下の小僧っ子からのアッパーカットだから、心底堪えたわ。でも私の中で何かに火を灯された感じがするのよ。私の人生は昨夜のアドバイスで大きく航路を変えた。Uターンまではいかないけれどね。」

桃とアイスティーで朝食を閉めているとマダムは「そうそう」と言いながら。膨らんだ封筒を突き出した。これは私からのほんのお礼だから、気にしないで受け取って欲しい。退職金なんて思って欲しくない。あなたは万が一このお金がなくなっていく場所がないならいつでも戻って来て欲しいの。とこしえのお別れにしたくない。ただそれだけよ。車はこちらで処分します。あと洋服の類は好きなものを好きなだけ持っていけばいい。暫く私も、あなたがしていたように、少し自分の頭で考えてみることにしたの。お礼の美辞麗句は沢山浮かぶけどAu revoir !ってところね。英語で言うならSee youかしら。またね。

リビングに供えてある吾郎の遺灰に手を合わせて思った、お前さんよ、吾郎さんよ、お前さんの死は無駄にしなかったよ。マダムは良い方向に人生の航路の舵を取ったんだ。お前の死は決して無駄ではなかったんだ。「安らかに眠りたまえ」俺はもう一度吾郎の遺影を眺めていた。

リビングには恐らく俺用に買って来たと思われる小ぶりのスーツケースがあった。色はミッドナイトブルーのメタリック。

俺は居室に戻ると持ってきたスーツケースに片っ端らから洋服を詰め込んだ。それから下着類。あっという間にスーツケースはいっぱいになってしまった。どうせロクな処分の仕方はしねえはずだから貧乏根性丸出しで押し込んだ。今日は土曜日。まだ徹平は寝ているだろうな。早々と思い出し封筒の中身を確かめた。恐らく百万円の札束とマダムの一言が添えられていた「楽しいひと時をありがとう」。最近、涙腺が緩くて困る。俺は涙をこぼさないように考えを違う方向に向けた。すると、またしても『お世話になりました』のメロディーが頭の中を流れた。

男なら夢を見るいつか遠いいところ。

いつまでも忘られないよ、お世話になりました。