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猫とジゴロ 第二十八話

マダムの部屋には何故かウクレレがあった。俺はウクレレを手にしたのは初めてだ。男なら一度は憧れるロックスター、俺の音楽のアイドルはニルヴァーナのカート・コバーンさ。ウクレレで彼らの最も有名な曲『Smells Like Teen Spirit』の旋律を一音一音辿ってみる。時計を見ると夜中の2時、マダムはスヤスヤと寝息を立てて、俺の隣で横向きに眠っている。緑色に光る美しい黒髪はセミロングで、良い香りがする。俺はマダムがすっかり眠ってしまったのを確認するとウクレレを持って居間に降りた。吾郎さんはどこに隠れているのかな。

居間のソファに腰掛けて、今度は『ムーン・リヴァー』を弾いてみた。たったの4弦しかないその弦楽器でよくもまああれだけのテクニックを披露してくれるよな。俺が言っているのはジェイク・シマブクロのことなんだけどね。まあ俺にはあんなド派手なパフォーマンスは出来ないからチマチマと『ムーン・リヴァー』を続けた。どこからともなく吾郎が現れたが餌をねだるわけでもなし、ちょこんと両の前足を揃えて大人しく目をしばしばさせている。気の所為かどこかやつれている感じが否めなかった。朝を待って斎藤さんに相談してみることにした。

朝が白み始める頃、俺は大変なことに気づいた。後輩くんと落ち合う予定だった。スマホを見てLINEを開けると1時間ごとに数回着信があった。ヤバいとは思ったけれど、こんな展開になるとはね。俺は「申し訳なかった。今度会うときは何でも好きなものを注文して良いからさ。本当に申し訳なかった。また会ってくれるよな?」と送信した。それっぽいスタンプもつけた。

そうして朝が来て『ムーン・リヴァー』の旋律をすっかりマスターして、コード進行らしきものも適当に見つけた。丁寧に丁寧に静かに爪弾いた。今日はマダムは仕事を休み吾郎も大人しくなっちまって、その所為か斎藤さんまで元気がなくついでに俺も元気がなかった。マダム邸はショートーの一角で一番の鬼門となってしまったかのように暫くは良いニュースは訪れなかった。こんな時、馬鹿な女いや馬鹿な人間は風水だの断捨離だのに勤しむんだろうなあ。あるいは雑誌の占い特集とかさ、一生懸命になってね。

そんなこんなで数日間があっという間に過ぎていった。食事も喉を通らないのかマダムは部屋に篭りっきりで顔を合わすことはなかった。吾郎も餌を食べたがらず、斎藤さんと俺は渋谷のペットショップに行ったり、東急ハンズのペットコーナーで猫用のおもちゃを買ったり四苦八苦だった。とうとう痺れを切らして俺は言った「吾郎は多分病気だ、意外と深刻な状態かもしれない。」「アキラさん私もそう思います。かなり大きな動物病院が山手通り沿いにございます、お連れいただいても構いませんか?」

東急ハンズで買った猫用のキャリーバックに暴れる吾郎を詰め込み、腕中に引っ掻き傷をつけられながらも俺は動物病院に歩いて向かった。動物病院に連れて行くと、言葉通り「借りてきた猫」のように吾郎は大人しくなっちまって心許なくか細い声でニャーと鳴いた。

先生は軽く触診してから「レントゲンを撮ってみましょう」と言った。「先生、コイツかなり悪いんですか?」「分かりませんが、明らかに良くない状態ではあります。」吾郎は観念したのか暴れることもなくそそとレントゲン室に連れて行かれた。

待合での数十分間は何時間にも感じられた。雑誌にも集中できず席に座っていることさえままならず廊下を行き来して「猫ドックのススメ」など張り紙に目を通していた。

やがて名前を呼ばれ診察室に入った。吾郎は目を閉じている。「少々暴れるので安定剤を投与してあります。ご心配なく」先生の顔には「余りよくない状態です」と書いてある気がした。「で、先生」と言いかけた途端に先生の口が開いた「悪性リンパ腫です」。「先生よくわかんねえんだけどさ、それって白血病とかの血液のがんってことかい?」「おっしゃる通りです。残念ですが持ってあと1週間から10日ですね。」あの、と言いかけたが何を言おうとしたのか忘れちまった。俺は俯きながら「ありがとうございました」と言って会計に向かった。

しかしさ、そんなことってあるかい。持ってあと10日なんてさ。マダムや斎藤さんにはどう説明しよう。キャリーバッグをぶら下げてとぼとぼと家路についた。