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猫とジゴロ 第十四話

斉藤さんはかなりのお疲れ具合で少しうとうとしているようだ。たまに何かぶつぶつ呟いている。夢でも見ているんだろう、可哀そうに。しげしげと斉藤さんの顔を見ると年輪のように細かく刻まれたシワは本当に数知れず、改めて歳のいった老人然たる面構えに見えた。決して「劣化」とかいう言葉では片付けられない、断固たる経験と知識で、むしろ威風堂々という風格さえ漂わせている。もっともここ数日の斉藤さんの、時として学のある、そしてまた時としてお茶目で可愛い言動で、斉藤さんに対するリスペクト(なんて「今風」の言葉で語ると軽薄だがとにかく)の気持ちが大きく印象を左右しているんだと思う。

斉藤さんが落ち着いた様子なので、俺も自分の腹を満たすことに決めた。皿こそ割れてしまったが、乗っていたメロンとトーストはまだ食べられそうだ。いっそのこと、と思ったが、今にも斉藤さんが起き出してきて「いけませんいけません。万が一割れたお皿の破片などが入っていたら大変な事になります。大変なことが起こりますと、斉藤としましてはかなりマズい立場に追いやられる事になります。クビなんて言葉も頭をかすめてしまいます。どうかどうか、新しいトーストと新しい果物をご準備させて下さい。」と捲し立てそうだな。俺は粉々の皿と食べ物は諦めて雑巾で拭い、台所にあった厚手のビニール袋にまとめ、おそらくゴミ箱であろう大きなボックスに捨てた。「朝からメロンなんてゴージャスだねえ」俺は独り言をいいながら例の仕事仲間達のことを思った。ユンケル飲んでるんだろうなあ。偉く重い訳の分からない梱包物を運ばされてこき使われて叱咤飛ばされて。俺は今置かれている自分の立場が、何だかすごく不安定で窮屈な場所に感じていた。それでもどこに行きようもない。とキッチンへの扉を開けて入った。

そういえば、この家のキッチンに入るのは初めてだ。斉藤さん以外はおそらく誰も入ることはなかろう聖域だ。俺はピカピカに磨かれた銅でできた鍋や小ぶりのソース・パンから始まり色々な形の包丁やナイフ、そして懐かしく思ったグラタン皿や茶碗蒸し用の器、さらにはおそらく「すず」でできているビール・ジョッキへと一つ一つ噛みしめるように視線を移していった。

トースターも、グッとレバーを押し込んで、しばらくするとチーンと飛び出す昔懐かしいタイプのものだ。パンを切るためのギザギザの目の荒い包丁でざっくりとパンを切り、トースターに押し込むとグッとレバーを押し込んだ。業務用かと思われる大きな観音開きの冷蔵庫を開けるといきなりメロンが俺の目に飛び込んできたんで、少し厚めのくし切りにして皿に盛り、それもシンクの横の調理台に並べた。チーンとトーストが飛び出したので、一枚は口に咥え、もう一枚は皿に乗せた。また、フライドポテトを作ろうとしていたのか棒切りのじゃがいもの横には、油を張った揚げ物鍋があったが、揚げ物を作るほど料理に詳しくないから手は付けずににおいた。

諸々をダイニングテーブルに慎重に運ぶと、冷めたベーコン・エッグと共に一気に腹にぶち込んだ。そんなこんなで汚れた食器をシンクに戻すと、とても気になってどうしても使ってみたかった「すず」のビール・ジョッキに、カゴメのトマト・ジュースを波なみ注いで飲んでみた。ジョッキはジュースでキーンと冷えて唇が当たると本当に心地よい冷たさが伝わってきた。なるほどね。これは病みつきになりそうだ。やはりビールだよな、なんてったってこれはビール・ジョッキなんだからさ。

腹がいっぱいになると、斉藤さんの様子をみに居間に向かった。斉藤さんはやはり眉間に皺を寄せて目を閉じている。もちろんウインクなどしない。今までの言動が嘘のように、深刻な様子で眠っている。「本当に疲れていたんだ。」言葉にこそしなかったが、自分のじいちゃんのことを思い浮かべようとしたが、上手いこと思い出せなかった。じいちゃんは俺が小学校の頃、肝臓のがんで死んじまった。病院のベッドに横たわり、黄土色になったシワシワの顔を一族みんなで見守っている情景は今でも覚えているが、ツルツルのハゲだったことや植物が大好きでじいちゃんちの庭は草木だらけだったこと以外はとんと思い出せなかった。孫は可愛いんだろうけど当の孫はじいさんのことなんかそんな程度にしか思っていないんだ。全く情けないやら気の毒やら。

しばらくソファーに腰掛けてボーッとしていると、坊っちゃん、もとい吾郎がのしのしと歩いてきた。「吾郎。吾郎ちゃん。吾郎さんよ」俺がいくら呼んでも鼻にも引っかけてくれない。雄猫だから気位が高いんだろうな。でもさ、絶対にコイツは正真正銘のバカだぜ。一瞬、吾郎は俺の方をチラリと睨むと何事もなかったかのようにのしのしと横切っていった。おっといけない、台所の入り口の扉が開きっぱなしなことに気づいた。

なんかヤバい予感だ。