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負けた日にネガティブな投稿をしないと決めた理由

2021年のJ1リーグが開幕して、はや3ヶ月。

私が応援している横浜FCは、14節を終えて1勝を挙げたのみ。あとは全部引き分けたか、負けたか。そのうえ、13節までは勝ち星を挙げていないといった危機的状況であった。その間、監督は解任を余儀なくされ、選手からは絶望にも似たコメントが流れ、クラブを退団した選手が他クラブ躍動する。そんな状況でポジティブな心理になれる訳もなく、時には試合結果とハイライトだけ見て、それ以上は何も触れないようにした事もあった。

それでもひとつ、自分の中で信念として守り続けている事が一つだけあった。それは、「負けた日にネガティブな投稿はしない」という事。今回はこの考え方に至った経緯について、私自身の経験も踏まえ、皆様にお伝えできればと思う。

ハッキリ言おう。元来、私は他人を小馬鹿にする事を楽しめるタイプの人間だ。他人を揶揄し、嘲笑い、笑いの種にする事が好きな人間だ。それによって他人を傷つけた事は1度や2度ではないし、怒らせた事だって、悲しませた事だってある。いじめられた事もあれば、いじめた事だってある。こんな事を他人様に胸を張って言える資格なんて到底無いと自覚している。けれども、どうしても言わずにはいられなくなってしまうような出来事があった。

ちょうど1年前。5月23日に、プロレスラーの木村花さんが自ら命を絶った。享年22歳。私と同い年だった。死因は言うまでもないので省略する。どんな痛ましい事件・事故であったとしてもそこまで感情移入しないハズの私であったが、この事件に関してだけは、本当に強いショックを受けた。

それには理由がある。
私は以前、彼女と同じ職場で働いていた。在籍期間が被っていたのは本当に短い期間ではあったが、彼女が人前で見せている姿とは違った面に触れる機会は他の人よりは割とあったと思う。
頻繁に…という訳ではないが、顔を合わせれば2,3会話をする程度の関係ではあった。そこで感じた事としては、彼女自身、表向きには天真爛漫で明るい姿を見せることが多かったが、実際は繊細かつ傷つきやすい性格の持ち主であった。(熱心なファンの方であれば見抜いていた部分もあるかとは思うが)
特に人間関係においては本当に不器用で、それによってトラブルを引き起こす事も少なくはなかった。だからこそ、その不完全さが表現者としての深みを際立たせていたという面も否定は出来ないのだが。私の中の彼女のイメージとしてパッと目に浮かぶのは、ヘッドホンを耳に当て、俯き加減で歩いている姿だった。彼女は、弱さと脆さを併せ持った1人の人間だった。

程なくして、彼女はその才能を認められ、業界で1番と言われる会社に移った。しばらくして私も、特殊な業界で働くストレスから精神疾患を患い、その会社を辞めた。彼女が『テラスハウス』に出演するという情報が回ってきたのは、それからしばらく経ってからの事だった。『テラスハウス』といえば、我々世代にとっては恋愛のバイブル的な番組であった。そんな番組にこの業界から出演者が現れるとはおめでたい事だ!と、1ファンとして喜んでいた。この時の私は如何に能天気な考え方をしたいたのかと小一時間問い詰めたくなる。

以前、お笑い芸人の有吉弘行氏が「有名になるという事は、馬鹿に見つかるという事」と言っていた。言葉を選ばず言うと、彼女は馬鹿に見つかってしまった。番組内で彼女はいわゆるヒールの立ち回りをした…いや、せざるを得なかったのかも知れない。彼女は洗濯の仕方を誤ってコスチュームをダメにした共演者の帽子を叩いた。その様子が地上波テレビで放映されると、彼女のSNSはたちまち大炎上した。あえてプロレス的言い方をするなら「ヒート(憎悪)を買った」のだ。私はこの件については何の証拠も持っていないので、彼女との交流の中から見た主観的な事実のみを述べるが、彼女は決して人を殴るような人間ではない。怒りに任せて喚き散らしたりするような人間ではない。プロレスラーは格闘技術を持った人間である。その肉体そのものが武器となり得る事をキチンと把握している。現代のレスラーは決して素人に暴力を振るう事などない。

テラスハウスを見ている層の大多数は、この番組をドキュメンタリーと捉えている。出演者はみな、一人一人が与えられたギミックをまっとうしていて、アングルを転がしてブックを書いている人間が居る前提で楽しもう…などという視聴者はごく僅かだ。視聴者にとって、そこに居るのは等身大の人間であり、その中で繰り広げられる【リアルな恋愛模様】を追体験しているのだ。そして、テレビ局側も【台本は一切ございません】と煽り視聴者をミスリードした。

これは、アニメ監督の山本寛の言葉を借りると【狂気と結託した】ことに他ならず、制御の効かなくなった狂気は、見境なく他人を傷付ける。

SNSと誹謗中傷行為には、抜群の相性の良さがある。SNSを使う時、人は社会で演じている役割とは違ったもうひとつの自分を作り上げる。会社や家庭を背負っていては言えないような事も、別人格を使えば言えるようになる。だからこそSNSは楽しいし、そこでしか得られない貴重な経験も出来る。立場を隠せるからこそ、発信出来ることもある。それは私も例外ではない。いま、私は本名も顔も出身地も職場も隠している。隠さないと言えないようなことを言っているからだ。そうやって後ろめたさを感じられているうちはまだいい。狂気が暴走するのは、大義名分を得た時だ。「アイツは酷い事をやった!」「住所と名前を特定したぞ!」「家まで行って○○してやったぞ!」「お前なんて消えればいいんだ!」
暴走した狂気による【正義の鉄槌】は、やがて善悪の区別さえもあやふやにしていく。一切の手加減もなく他人をなじり、罵り、痛め付ける。その様を人々は【炎上】と名付けた。
人間は社会を持つ動物である。どんな人間であっても、他者との関わりからは避けられない。他者の存在によって初めて、人間は自分を知る事が出来る。自分より優れた他者の存在により、人間は自らの至らなさを知る。自分より劣る他者の存在により、人間は自らの優位性を知る。自分とは違った他者の存在により、人間は自らの個性を知る。人間は常に、他者との比較の中から自らを見出す。【正義の鉄槌】は、他者との交流の中から各々が築き上げた倫理観や見識が生み出した行為である。「私が代わりに言ってあげなきゃ」「これは世直しだ」「この子のために言ってあげてるの」「誹謗中傷ではなく批判」「国のために」「子供たちの為に」「チームへの愛故に」これらの言葉を吐き、【正義】の為に行動する人間を沢山見てきた。本当にそこまで言う必要はあるのか?それが世のため人のためになる言動なのか?それは正義なのか?それが命を奪うという認識があるのか?上記のような発言をする人たちは、それを自らに問いかけたことはあるのだろうか。きっとない。それを考えられる人間は正義を隠れ蓑に、横暴の責任転嫁などしない。大抵の場合、大義名分のかさをきて他人に罵声を浴びせては自らのストレスを発散させているだけなのだ。その程度の事なのだ。

その程度の事であっても、受け止める側は傷付く。私だって、インターネットを通して知らない人から毎日罵声を浴び続けたら気が滅入る。誰だってそうなのだ。言葉は凶器になる。言葉で人は死ぬ。現にちょうど1年前、人が1人殺された。

この事件は、社会に大きな影響を与えた。同じく被害に遭っている著名人が声を上げた。色んな人間が自らを省みた。それでも社会は変わらなかった。【炎上】と称したイジメや暴力行為は未だに無くならず、政治家や著名人がその餌食となっている。

これは人間の本能なのだ。社会の輪の中から外れた人間を袋叩きにするのは快楽であり、本能なのだ。たから、人が1人死のうが2人死のうが、この連鎖ははきっと収まらない。

彼女が命を落とした時、
デビュー当初からの彼女の大ファンであった友人は涙を流した。私も、やり場のない鬱屈とした気持ちが心に渦巻き、ため息ばかりをついていた。そして、我々よりもずっと彼女を身近に知る人たちのショックは測りきれない。
それと同時に、私自身がこれまで行なってきた愚かな行為が頭を駆け巡った。他人を小馬鹿にし、上から目線で接し、陰口を叩き、笑い者にした行為の数々を思い出していた。彼女の死を目の当たりにし、自らの罪を知った私は頭を抱えた。そして誓った。

「この世界を変えよう」

その為にやる事はただひとつ。
それは、自分自身が変わる事。
他人は変えられない。イジメ、誹謗中傷は人間の本能であり、おそらく永久に無くなることは無い。そんな中で、自分が出来る中で一番世界に影響を与えられる事は何か。
私は考えた。どうすればいいのか。
そして出た答えは至極単純なものであった。
「自分が変わればいい」
私は、彼女の死を決して無駄にしたくはなかった。それが私なりの弔い方だと思った。

その日から私は、少なくともSNS上においては人を傷つけないよう意識をしながら言葉を探すようになった。他人を傷つけかねない事を口走りそうになった時は、何も言わないようにした。それでもまだ完璧ではない。時が経つにつれ、その意識も薄れてきてしまっている。最近はまた悪意のこもった言葉を吐くようになった。そんな自分と向き合うため、あえてTwitterの名前を変えた。この記事を書くことにした。

横浜FCは今年、あまり勝てていない。負けた後のTwitter上には、罵詈雑言が渦巻いている。思わずやりすぎだと思うような発言をみかけることもある。私は何も批判のない世界を作りたい訳ではない。ただ、リスペクトを欠く批判を少しでも減らせれば。とは思っている。

私はもう、あのような別れを経験したくはない。
少なくとも、横浜FCが負けた時くらい、SNSでコメントを書く時くらいはネガティブを我慢しようと思う。私は人の命を奪いたくもないし、奪われたくもない。


だから私は、負けた日にネガティブな投稿はしないと決めた。


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