夏花の歌

その一
空と牧場のあひだから ひとつの雲が湧きおこり
小川の水面に かげをおとす 水の底には 
ひとつの魚が 身をくねらせて 日に光る

それはあの日の夏のこと!
いつの日にか もう返らない夢のひととき 黙つた僕らは 
足に藻草をからませて
ふたつの影を ずるさうにながれにまかせ揺らせてゐた ……

小川の水のせせらぎは
けふもあの日とかはらずに 風にさやさや ささやいてゐる
 あの日のをとめのほほゑみは なぜだか 僕は知らないけれど
しかし かたくつめたく 横顔ばかり   

その二
あの日たち 羊飼ひと娘のやうに たのしくばつかり過ぎつつあつた 何のかはつた出来事もなしに 何のあたらしい悔ゐもなしに あの日たち とけない謎のやうな ほほゑみが かはらぬ愛を誓つてゐた 薊の花やゆふすげにいりまじり 稚い いい夢がゐた

――いつのことか! どうぞ もう一度 帰つておくれ

青い雲のながれてゐた日 あの昼の星のちらついてゐた日…… あの日たち 
あの日たち 帰つておくれ
僕は 大きくなつた 溢れるまでに 僕は 
かなしみ顫へてゐる

「夏花の歌」は、詩集『萱草に寄す』に収められています。
(「わすれぐさによす」と読みます)

道造のソネットは、どこか手に届かないような、遙かなものへの思いを歌っているものが、多いような気がします。
それは、二度と帰らない夏の日であったり、恋する乙女の微笑みであったり。
どんなに望んでも掌に入らないからこそ、それは美しく、そして哀しく、きらめいているのかもしれませんね。

牧歌的なのどかさの中にある自然美と、当たり前の日常の中にある、大人になり行く、二度と戻らない日が美しいです。

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