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「さよなら、俺たち」(清田隆之『さよなら、俺たち』巻頭エッセイ)公開!

7月2日に発売となる清田隆之さんの新刊『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)。
巻頭の書き下ろしエッセイ「さよなら、俺たち」を特別公開です。

さよなら、俺たち


 さよなら、という言葉を使う機会は多くない。別れのあいさつであることを知らない人はいないが、口にするのは意外と難しい。「バイバイ」「またね」「お疲れさまでした」とは言うかもしれないが、「さよなら」という言葉を使う人は実際どれくらいいるだろうか。どことなく重さやさみしさがつきまとい、気軽には言えない。感覚的に抱くちょっとした"言いづらさ”の裏には、この言葉に宿る本来の意味がきっと関係している。

 私は普段、恋バナ収集ユニット「桃山商事」の一員として、人々の失恋体験や恋愛相談に耳を傾け、そこから見える恋愛とジェンダーの問題をコラムやラジオで発信している。ジェンダーとは「社会的・文化的に形成された性別」と訳される言葉だ。常識や役割、システムやルール、教育やメディアなど様々なものの中に潜んでいて、それらを空気のように吸い込むことで知らぬ間に構築されてしまう「男らしさ」「女らしさ」のようなものを指す。何かと男女二元論で語るのは乱暴だし、「男女である前にひとりの人間」と性差をめぐる議論を敬遠する向きもある。それはその通りだと思う。しかし、ジェンダーとしての男女はやっぱり違う。あまりにも違うと私には感じられてならない。

 なぜ歴代の首相はすべて男性なのか。なぜセクハラや性暴力の被害者は女性ばかりなのか。家事や育児の負担が圧倒的に女性に偏り、性風俗やアダルトコンテンツのほとんどが男性向けなのはなぜなのか。2019年、私は『よかれと思ってやったのにーー男たちの「失敗学」入門』(晶文社)という本を書いた。これまで女性たちから聞いてきた「男に対する不満や疑問」にまつわる膨大なエピソードを分類し、男性当事者としてその背景や原因について考えた一冊だ。そこには驚くほど似通ったエピソードがたくさんあった。"あるあるネタ”と言ってしまえばそれまでだが、すべて異なる男性たちの話であるはずなのに、同一人物かと疑いたくなるくらい同じようなことをしている。判で押したような言動が量産されている背景には、間違いなくジェンダーの影響がある。

 ここ数年、「男性性」や「性差別」の問題が取り沙汰されることがとても増えている。立場ある男性がセクハラやパワハラで失脚するニュースはあとを絶たないし、企業や自治体の広告、あるいは男性の政治家や芸能人の発言が「女性蔑視的だ」と批判されて炎上する事件もたびたび発生している。大学入試や就職試験で男子学生が優遇されていたという驚きの事実が発覚したのも記憶に新しいし、世界経済フォーラムが発表している「ジェンダー・ギャップ指数」で日本は毎年低迷しており、今年2020年の発表では、153か国中121位という過去最低の順位だった。

 もちろん「男性が加害者、女性が被害者」という話ではないし、すべての男性が女性蔑視をするわけでもない。しかし、男性が「男性である」だけで与えられている“特権”は確実にあって、それは「考えなくても済む」「なんとなく許されている」「そういうことになっている」といったかたちで我々のまわりに漂っている。だから多くの場合、それが特権であることに気づかない。そういった土壌の上に建っているのが男性問題であり、おそらく太古の昔から存在してきたはずだ。そしてフェミニズムをはじめ、ジェンダーの問題に取り組んできた無数の人々が長年それに疑問を投げ続けてきた。そういう粘り強い運動がベースにあり、近年SNSやネット空間でどんどん可視化されてきた女性たちの声や、また2017年に巻き起こった「#MeToo」ムーブメントのうねりなども相まって、これまで特権という隠れ蓑に守られていたマジョリティ(社会的多数派)男性たちに自省や変化の必要性が突きつけられているのが2020年の現在だと思う。

 これは大げさに言えば「地殻変動」のようなものかもしれない。私の恩師であり、英米演劇の研究者である早稲田大学の水谷八也先生は、『ハムレット』の有名なセリフについてこのように述べている。

 16世紀に入って、何百年と続いてきた宇宙観やカトリックの地盤が揺らぎ始めたことによる人間の「知」の地殻大変動は17世紀の後半まで続きます。このような時代を背景にシェイクスピアの『ハムレット』を考えてみると、思わずうなってしまいます。
 あの有名な独白、“To be or not to be, that is the question.”を例に取ってみましょう。日本では長年、「生か死か、それが問題だ」というように「生きるか、死ぬか」の問題として訳されてきましたが、1970年代に小田島雄志が「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」と訳しました。
 ここまで見てきたような人間の知の地殻大変動期のことを考えると、正鵠を射た訳だと言えるでしょう。研究社の『シェイクスピア辞典』によれば、『ハムレット』が書かれたのは「1600年頃(1599年末以降1601年2月以前)」です。つまり、大きく時代が変化していったその折り返し点である1600年頃にこの台詞が書かれていたのだと考えると、ゾクッとします。と同時に、小田島雄志の言葉のセンスにしびれます。
(note「基本的人権と日本の近代│シェイクスピアの混乱から星野源の『ばらばら』へ(4)」)

 ルターによる宗教改革があり、コペルニクスが地動説を唱え、それまでの神を中心とする絶対的な宇宙観に揺らぎが生じはじめたタイミングで書かれた“ To be or not to be, that is the question.”というセリフに、「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」の訳が当てられている。このことを恩師から教わったのは最近のことだが、私にはこれが現在の男性問題にも当てはまる言葉に思えてならなかった。

 マジョリティとはその存在が自明視され、改めて問われることがない人々を指す言葉だ。もちろんひとりの人間は様々な属性の集合体であり、その中にはマジョリティ性とマイノリティ性が混在している。なのでひとつの属性でその人のすべてを語ることは当然できないが、それでもやはり、この社会でマジョリティとされている「男性」という属性について見つめ直す必要があるだろう。

 男性であることを主張しないと「ないもの」にされてしまう経験はそうそうないし、男性という属性に関する説明を他者から求められる機会もほとんどない。「俺たち」という集合名詞に埋没し、いろんなことに無自覚のままでいられるという特権に浸ってきた我々は、自己の言語化に向き合ってこなかった。外部からの様々な働きかけによって男性問題が浮き彫りになり、強固な地盤にヒビが入りはじめた今、存在(be)について問うた「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」という言葉が鋭く迫ってくる。
 
 私は本書でひたすら自分のことを書いた。失恋という喪失体験にはじまり、恋バナ収集の現場で見聞きしたエピソードや、友人知人との語らい、ニュースや社会問題、また本や演劇といったカルチャーを通じて考えてきた「自分と男性性」の問題を取り上げている。それは男性というジェンダーについて見つめ直し、「俺たち」から「私」という個人への脱皮を目指すためのプロセスと言っていいかもしれない。

 昔、桃山商事のメンバーである森田雄飛からおもしろい本を教えてもらった。それは倫理学者の竹内整一さんが書いた『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(2009年、ちくま新書)という本だ。私はここではじめて「さようなら」の本当の意味を知った気がする。それはハッとする体験だった。「はじめに」で著者はこのように述べている。

 本文でくわしく見ますが、「さらば」「さようなら」とは、本来「然あらば」「さようであるならば」ということで、「前に述べられた事柄を受けて、次に新しい行動・判断を起こそうとするときに使う」とされた、もともと接続の言葉です。その、本来接続詞である言葉で、日本人は、すでに一〇世紀のむかしから別れてきているわけですが、なぜわれわれは、このような言葉で別れてきたのだろうか、という疑問でもあります。

 世界の別れ言葉というのは大きく分けて3つに分類されるようで、それぞれ英語の「Good-bye」やスペイン語の「Adios」といった「神のご加護を」系、「See you again」や中国語の「再見」などの「また会いましょう」系、「Farewell」や韓国語の「アンニョンヒケセヨ」などの「お元気で」系となっている。日本語の「さようなら」はこのどれにも当てはまらないとても珍しい言葉で、そこには日本人の「別れ」に際しての「心のかまえ」が密接に関連しているという。

 日本人が「さらば」「さようであるならば」と別れるのは、古い「こと」が終わったときに、そこに立ち止まって、それを「さようであるならば」と確認し訣別しながら、新しい「こと」に立ち向かおうという心のかまえ、傾向を表しているという説明です。

 この本で紹介されているアメリカの紀行作家アン・リンドバーグの言葉を借りれば、「Till we meet againのように〈別れの痛みを再会の希望によって紛らそうと〉しない、Farewellのように〈別離の苦い味わいを避けてもいない〉、Good-bye のように神に助けを求めることもしない」言葉、それが「さようなら」だというのだ。私は30 歳の時、大きな失恋を経験した。結婚観や家族観など様々なすれ違いが広がり、もはや修復は不可能という地点に至っての別れだった。最後の瞬間は池袋駅の改札前だった。5年以上にわたる長いつき合いがこれで終わる。もしかしたら彼女に会うのは人生でこれが最後かもしれない。感傷的な気持ちに押し潰されそうになっていた私は、最後の別れ際に思わず「またね」と言ってしまった。まさしく〈別れの痛みを再会の希望によって紛らそうと〉し、〈別離の苦い味わいを避け〉ようとした結果の「またね」だったと思う。

 ちゃんと「さようなら」するためには、これまでの出来事を向き合って受け止め、しっかり決着をつけた上で決別し、新たな一歩を踏み出す必要がある。この態度はおそらく「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」という『ハムレット』の言葉とも地続きで、現代を生きる我々男性に必須のものではないかと私は考えている。

 本書の編集者である森山裕之さんと知り合ったのは10年以上前のことだ。以来、定期的にカフェでお茶をしたり、庭の草むしりを手伝ったり、失恋した日の夜に話を聞いてもらったこともあった。本格的に仕事をするのはこれが初めてのことだと思う。私も森山さんも、家に本が一冊もない環境で育った。経験や体感が先にあり、本の言葉で事後的にそれらを言語化していく人生を送ってきたのが我々だ。私がいろんな媒体で書いてきたエッセイを森山さんが編み、この本ができ上がった。男ふたりで男性性の問題に向き合う時間は楽しいものだった。性格は真面目だがノリは軽い我々らしく、「さようなら」を「さよなら」と、ちょっとだけライトな響きにしてみた。

 さよなら、俺たち。決して簡単なことではないし、これからだって囚われてしまうと思うけど、自分と向き合い、他者と向き合うためにも、まずは「私」という個人になる必要があるだろう。もう集合名詞に埋没したままではいられない。ばらばらな個人としてみんなと一緒に生きていくためにも、私は「俺たち」にさよならしてみたいと思う。

清田隆之(桃山商事)著『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)
「さよなら、俺たち」8p〜16p より転載

清田 隆之(キヨタ タカユキ)
1980年東京都生まれ。文筆業、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。早稲田大学第一文学部卒業。これまで1200人以上の恋バナを聞き集め、「恋愛とジェンダー」をテーマにコラムやラジオなどで発信している。『cakes』『WEZZY』『QJWeb』『an・an』『精神看護』『すばる』『現代思想』『yom yom』など幅広いメディアに寄稿。朝日新聞be「悩みのるつぼ」では回答者を務める。桃山商事としての著書に『二軍男子が恋バナはじめました。』(原書房)『生き抜くための恋愛相談』『モテとか愛され以外の恋愛のすべて』(共にイースト・プレス)、トミヤマユキコ氏との共著に『大学1年生の歩き方』(左右社)、単著に『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(晶文社)がある。




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