「寂しい」

「寂しい」という言葉を、表出することにすごく抵抗を感じ続けている。昔から。

「寂しい」という言葉をよく使う人間に、良いイメージがまるで無い。
所謂「構ってちゃん」。他人とずっと一緒にいないと破裂でもするんか?ってくらい、四六時中他人と共に過ごしている部類の人間。学生時代はよくいた。
多分そういう人は、寂しくないと感じる心の容量が小さくて、昔から他人と一緒にいるから寂しくない環境に慣れているのだろう。
勝手な想像だけど、そういう人って、1人でいる孤独な時には、ずーっと音楽やテレビを大音量で流し続けてるイメージもある。

そしてそういう人の「お世話係」の役になったら、もう大変。
私とは合わない。そういう人とずっと関係を続けるのは無理だ。

私は前から書いてるけど、1人っ子という環境に育って、親から虐待を受けていた。
小学校の頃、放課後に同級生と遊んだり学童から帰ったりした後の家に、親が帰るまでの間、数時間1人でいた。
同じ時期に、数年間育てていた金魚が、1人で帰ったら完全に死んでいて、ずっと水に浮いた死骸を見つめていた。なんだかこの頃から病んでるな。
「寂しい」という概念は元から無かったかと言えば、そうではない。全部慣れと性質だ。

人が集まると必ず、大なり小なり揉め事が起きる。全員性格が合うなんて奇跡は起きないから。
2人でいてさえも、揉める。私は短気だから、関係をすぐに切る方だった。
面倒くさい嫉妬やマウントに巻き込まれるんだったら、1人でいた方が余程マシだ。今でも強くそう思っている、ところがある。嫉妬のことについては、1記事書けそうなくらい、思いつく言葉がある。
揉め事が起こっても、なんとか相談してみんなで少しでもわかり合えるようになろう、という協調性が無い。

自分で自分と勝負する、という感覚がずっとある。作品作りはまさにそれだ。
他人との勝負事と言えば、すぐに数字に出る営業成績や学校の成績くらい。
他の、例えば人生においてのスペックでのマウントの取り合いなんて、バカげてる。人によって価値観が違うから。これは今でも思ってる。
孤独をすっかり楽しんで、他人からは遠ざかった方が無難。
初めての彼氏と付き合うまで、そう思っていた。

最近、恋愛や友情や成功体験が、私にとっては洗脳であり依存先であり神格化されてたんだな、と気付いた。
本当に私は、頭が弱くて、心が強くない。悪い意味で。

初めての彼氏と付き合ってから2ヶ月後くらいに、名古屋に1人でライブ遠征に行った。もう13年くらい前のことかな。
ほとんど、ライブやライブ遠征は1人で行っていた。1人だと自分のペースで動きやすくて、気遣いもしないから楽だった。
だが、ライブハウスの最寄駅で何かを食べて一息ついた時。
「何かが足りない」。
そう思って、なんだかそわそわした。多分、これが人生で1番最初に感じた確かな「寂しさ」だったかもしれない。
それまでは、色々曖昧だった。高校までも、敵意を向けられたりハブられたり利用されたりしたことは沢山あったけど、親にも理解されず麻痺していて、自分に対しての周りからの評価はこれで当たり前だと思っていた。

12年前に、1人暮らしを始めた。
よく、1人暮らしを始めると、寂しくて異性を部屋に連れ込みまくったり、ルームシェアしたりする人々っているよね〜でも自分は違うから!と、自分を過大評価していた。
越してきて1日目の夜に、初めて付き合った彼氏と過ごしたのがいけなかったのか。
その後の1人きりの夜、数日間、私はぬいぐるみを抱きながら寂しくて泣きまくっていた。
自分に対して、は?と思った。違うでしょこんなん。と。
次第に慣れていったが、しばらく怖くて電気を消して暗闇で1人で眠れなかった。

このへんでようやく気付き始める。

そうです、私は強がりでした。

今はよくわからないので、過去形にしたが、なんだったんだろう、あれはやっぱり依存だったのかな。
どこかで、絶対的に強がっている自分と共に生きてきたかんじがする。
こうして弱みを見せると、ナメられることに拍車がかかるから。
でも、これからも、あからさまに弱みに漬け込んでくる奴らに対してはもう、下等としか思ってないからあんまり精神的ダメージはない。
そういう事例ではない。意図的ではなく、自然に訪れる強い孤独感。その状態のことを、絶対に「寂しい」と言ってはいけない、みたいな自分ルールが出来上がっていた。

ライブハウスの最前の柵で、私1人を挟んで、恐らく意図的に「あんた邪魔なんだよ」とでも言うかのように両側からはしゃいでた奴らが2組いた。
勿論ネット上ではそいつらに認知されていた。マイナーバンドの面倒な部分の1つです。
でも、これをされても、寂しいとは思わなかった。意図的だとわかっていたから。
目当てのバンドの演奏時間が終わって転換時間になったら、偶然挟んできた奴の片割れの頭にエルボーをかました状態になった。私の背がでかくて、そいつがしゃがんでから立ったら、そいつの頭が上がる先に私の肘があったのだ。
あれは偶然にしては爽快だったな。

多分自分は、寂しくないと感じる心の容量は多めなんだと思う。服などの自分が身に付けるものを買うとか、何らかの作業を集中してするとか、絶対に1人の方が向いてる。他のことまだもあるかも。ライブも、今でも1人でも楽しい。
しかし、無償の愛を向けてきた人に対しては、今は違うかもしれないが、依存してしまっていた。

最近では「生涯独身」なんてよくあることなんだけど、自分がどうなっていくのかはわからない。
今年1月に別れた元彼とは、色々合わなかっただけなのだが、全然恋愛モードに入り込めなかった。むしろ休日に、おしゃれしないといけなくて、他人に気を遣いながら遊びに行くのが面倒だった。
というか、依存して失って寂しさを感じることが怖くて、愛を避けるようになって、「大好きだよ」とか言われても、「はいはい、今は、ね」と心の中で思うだけだった。

愛が怖い。

そうなってしまった。拗らせすぎだな。
「寂しい」と「愛が怖い」は、反対に見えて、実は近い感情なのかもしれない。というか、過程?

例えば、コロナ禍の前に、複数人や誰かと夜まで飲み会して語った後の1人の帰り道。
何度も経験したけど、このお祭り騒ぎのような浮かれポンチの状態が、永遠に続けば良いのにななんて酔っ払った頭で思っていた。けれど、これっきりでも良いのかなとも思っていた。
人間同士の関係がいつどこで途切れるかなんてわからない。悲しみや怒りや醜態で終わるのならまだ、突然この楽しさのまんまで終わった方が良いのかも、と、自分の感情に「予防線」を張っていた。
関係が終わることによって「寂しい」と感じるハメになる前に、「愛が怖い」と自分の中で宣ってしまえば、「寂しい」は回避できる。

私は実際、弱虫で甘ったれで寂しがりで怖がりだ。
いつでも根底は変わらなかった。ただ、育った環境からして、「1人でも大丈夫」を自分に言い聞かせるために、強がりや予防線を張ること、面倒ごとを避けることにいつの間にか慣れていた。
むしろ、わざと1人で目立つことで、自分の中の強がりや予防線の強化を促していた。
じゃあ今のこの状態をどうしよう、の先には、「時間経過での解決」しかないのではと考えているが、正しいかどうかはわからない。正しさって何だ?

好きなバンドマンが、「つけたいですね、鈍感力」というツイートをしていた。
好きなバンドマンが、「綺麗なものだけ見ていなよ」という歌詞を書いていた。
好きなバンドマンはいつでも、自分にしかわからない苦しみと闘っている。
多分バンドマンなどの芸術関連の人々じゃなくても、そうなのかもしれない。
でも私は、健常な鈍感力が足りなくて、綺麗なものばっかり見れなくて、自分にしかわからない苦しみと闘うことから逃げている。

ほんっとーーーに、昔からチキンです。

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