確かなる憎悪

ツイッターに流れてきたブログを読んで、感化されたのでなんとなく。

昨日の記事に、少なくとも10年前の私のみくしーの文面には確かなる憎悪が足りない、と書いた。
ツイッターにも書いたのだが、私は1人っ子で、歳の近いきょうだいがおらず、喧嘩の仕方を知らない。仲直りの仕方も知らない。なんなら、現実での怒り方も未だにわからない。
こうして、ねっとや紙ののーとの文章に愚痴などを書くことでしか、昇華の仕方がわからない。

精神疾患になって、死というものが割と身近になったけど、もっともっと身近な人が沢山いるんだなぁ、とさっき読んだブログで改めて思った。
精神疾患に「治る」という概念はなく、癌のように「寛解」という状態になら、もっていける。
精神疾患は「心の風邪」とよく言われるけど、うつぬけというマンガの作者さんも描いていたが、精神疾患は「心の癌」である。
風邪のように、大人しくして薬を飲んでいれば治るものではない。

私の今までの人生で、身近な人が自死を選んだという経験は無いに等しい。
ついこの前、ツイッターでフォローしていた年下の女性が自死を選んだ。音源だけのファンだけど、私がとあるばんどを好きになったきっかけになった人である。
身近な人が自死を選ぶことが少ない分、両方の祖父母は割と早くに亡くなっている。病死や老衰。
加えて、通っていた絵画教室の先生が病死し、少し好きだったばんどまんは、自死や病死を何人かしている。

1番近いお葬式の記憶は、2015年の1月。父方の祖母で、この時に全員の祖父母が亡くなった。
何故か、祖母の頭蓋骨を最後に骨壷に入れたのは私だった。
こんなにくずな私が、あんなに穏やかなおばあちゃんの人生の最期の瞬間を行なったことについて、その後私は酷くプレッシャーを感じた。
そもそも人間の最期とはどの地点なのか、考えだすとキリがないのだけど。

自死であれ病死であれ老衰であれ事故死であれ災害死であれ、どんな形でも人間の死は平等なのかもしれない。
でも、平等ではないのかもしれない。それは、その人の死によって心底悲しんでくれる人がどれくらいいるか。その数で決まってしまうこともあるのかもしれない。
ころなかで孤独死が増えているらしいが、孤独死は一概に、亡くなった人の所謂人望の厚さの問題ではないと思う。家族はいるが、仕方なく1人にならざるを得なくて、孤独死という形になってしまったこともあるだろう。
しかし、死刑因は、生前の行いが極悪であったために、国が死という罰を下す。免罪以外の場合だと、やはり平等とは私は思えない。

この記事で言いたいのは、

自分がこんなにも真剣に人の死を願うなんて思ってもみなかった。

中高生くらいだと一部では、本当にしんでほしいと思わずとも、軽く「死ね」という言葉が使われるのではないだろうか。
まぁどんな歳になっても、軽く「死ね」という人は一定数いるのだけど。
私はある時期を境に(覚えていない)、軽く「死ね」と書くのをやめた。その代わりに、日常で地味に困ることを例に出して、嫌悪感を表すことにした。

だが、嫌悪の対象が現実で本当に死んだことを想像して、心底喜んで1人でパーティーでも開きたいくらいの他人が、30歳前くらいに、何人か現れた。
そこにはもう、一生モノの憎悪の塊しかない。
勿論、自分がその手を下す側になろうとは考えもしない。何らかの要因で、勝手にしんでくれと祈り続ける。
こんなことを考えるようになった自分に驚きである。

私は、自殺未遂を何度かしたことがある。
全て薬の大量服用。致死量を飲んだこともある。
救急車で運ばれ、活性炭を飲んだり下剤を入れられたりして、幸か不幸かわからないが、すぐにキョトンとしていた。
入院ってなんてつまんないんだろ。そんな気楽なことを思いながらも、私がいた病棟は症状が重篤な患者さんばかりいる場所だったので、隣の隣のベッドでは、全身に管を繋がれ、面会に来た家族と喋ることもできない人もいた。
命の運命?っておかしなものだな、とその時改めて思った。
その人は恐らく父親で、子供もいてとても必要とされている人間なのに、興味本位で大量服用してすぐに楽になったくずの私の隣の隣で、命をなんとか燃やしている。

そんな経験があったにも関わらず、本気でしんでほしいと思っている他人が何人かいる。
全員、勿論私にとても酷いことをした奴らなのだけど、とにかくそういうことを忘れることができない。
憎悪という意味で永遠に覚え呪い続けている時点で、もうそいつらの思う壺なのだが、あんなに悲しい死の場面を何度か目の当たりにしたのに、対象が変わると思考が矛盾しひっくり返ってしまう。

人間ってそんなもんなんかね。

あと先述した、感化を受けたブログ記事を書いた方は、太く短く生きたいと思っているようなのだが、それは私も同じだ。
一般で言う「惨め」で「完全に孤独」な状態になる前に、死んでおきたい。
どういう状態が、「惨め」で「完全な孤独」なのかは、本人が決めることなんだけど、少なくとも私はまだ藁に縋っている。
生前葬にも興味がある。

なんだか、他人の死を心から願うなんて、自分のレベル下がったなーなんて思う時もあるけど、
私は堕胎という形で命を1つ奪っている。
その時点で、もう私のレベルは地の果てに落ちている。
命ってなんなのかな、と考える機会が幾度となくあったのに、それでも他人の死を願うまでになってしまった。
そういう罪悪感を与えることも、そいつらの狙いなのだろうけどね。

確かなる憎悪を抱えて、いや色んなマイナスの感情を抱えて、心身の健康を削り、その氷点下の中で作る作品は、もう誰も模倣できないものだと今も信じている。

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