「よいこのくすり」という曲の歌詞に共感する。

この曲の感想や考察などの内容ではないのだが、最近酒を滅多に飲まなくなったことや、買い物依存になってしまっていることなどから、この歌詞に共感する。
最近全然書いていなかったので、ただ思っていることをポエム的に適当に並べます。

私は知りすぎてしまったのかもしれない。今でも全然無知なんだけど、何というか人や世の中の汚い部分を見すぎて。
というか元々夢みがち・期待のしすぎなんだろうな。プラスから初まってしまってマイナスに落ちる高低差が激しいだけ。

4年前くらいから、記憶がぼんやりしてる。
でも夢にはしっかり過去のことが出てくるし、急に思い出したりもする。
愛というものを本当に忘れてしまった。動物類で言えば、同居猫のぬーと、中学からの友達とそのお子さんに対してだけは、確かに「大好き」と言える。しかし基本的に物しか信じられなくなった。物は裏切らないから。

人や、人が関連している対象にのめりこむ(私の場合は依存かな)ことが、正直怖くなってしまった。人から嫌われるのは慣れてるけど、自分が人を嫌いになる気力はもう枯れてきてるかんじがする。
それなら1人の方が全然マシじゃない?と思うことが増えた。なのにこうして自分を発信しているのは、やはり誰かに対して自分をわかってもらいたいっていう期待があるからなのかもしれない。

「怒るのって、疲れるじゃん?」と、中学からの友達と、近所の若者が通りすがりに言っていたのを聞いた。
確かに私も最近そういう傾向にはあるけど、嫌いになるのと怒るのとでは、同じに見えて違うと思う。多分だけど、いちいち怒るってことは、まだその対象に関心があるからなんだよね、やっぱり。当たり前のことを書いてるけど。

私は人の粗探しがすごく得意で、でも自分の粗探しもすごく得意。ほぼマイナスの感情で生きている気がする、いつの間にか。爽やかな人間にはなれませんでした。
最近、嫌いすぎる人に対してはもう「面白い(嘲笑の意)」と思うようになってきた。愉快なんだよね、頭の構造が違いすぎて。そいつの中では何が起こってんだろって。マジでそういう人間ホイホイなの、何故なんだか。

と、考えてみたんだけど、やはり自分が弱いからとしか思えないのだ。すぐにナメられる、言うことホイホイ聞いちゃう、他人にばかり付き合ってしまう、頭の回転が遅い。さっき、嫌われるのは慣れたと書いたけど、それはネット上だけで、現実では嫌われるのが怖くて、イエスマンになっているかもしれない。
でも、自分の守り方もわからない。それは知らない。自分なんか守ってどうすんの?くらいに思っているのは、自分を守らなければ経験値が増えると勘違いしているからだと思う。

いや、なんか、自分可哀想でしょ?みたいなアピールしたいわけじゃないんすよ。
ただ書きたいことを書いてるだけで。自分のことって語りやすいじゃないですか、まぁこんなに長ったらしいし興味ないだろうけど。

ぼーっとすることが多くなったと思いきや、スイッチが入るとガンガンに行動を飛ばす。まぁそれは昔から変わってないし、自分の感情に振り回されすぎて疲れる、という言葉も前からTwitterに書きまくっている。
でも、自分という存在を、未だに統括できずにいる。統括できてる人っているのかな、俯瞰できる的な。
色々な物が好きすぎて、自分の趣味などがバラバラなんだけど、それもそれで自分だと思いたい。

全然まとまりのない話だけど、今日発売なのかな?、米津玄師のPale Blueという曲の歌詞に、「花束」って出てきて、あー話題のあの映画と言えば…ってなったから、ネタバレ考察みたいな記事を読んだんですよ。恋愛映画ってほとんど興味ないし。
こういうとこがダメだよね、自分の嫌いな対象を知ろうとしてしまう部分。だって確かな嫌悪の理由がないとダメだと思うから、知ろうとしちゃう。

あんま中身がない考察のように思ったしそういう映画なのかもしれないけど、要するに他人との縁ってそういうものなのかもねと、冷めた感想しか浮かばなかった。でも、何だか言い表せないような、センチメンタルを感じた。

どんなに楽しくてときめいて嬉しくて長い年月を一緒に過ごそうとも、関係が切れる時は切れるし、でも私の中でそれらは綺麗な過去じゃなくて消したい過去でしかないこと。嫌うことで自分を守ろうとしているということ。そういうとこは謎にプライド高い気がする。
私は自分から関係を断つことが多い。特に女性相手。ためてためて、何かの拍子にハイダメー!ってなって、プッツン。これ以上、労力と時間と金を割きたくないって思ったら、ブロックかフェードアウト。

あ、好きか嫌いかの話しかしてないですね。
私わりかし極端なんですよ何でも。グレーゾーンがない。グレーのままにしておく忍耐力がない。ハッキリさせたい。

とあるクズのために7年無駄にした。私のあれは、愛じゃなくて依存だった。そんな弱い自分が情けなくて、自分を辞めたくて、今せめて物の断捨離を少しずつして、新しい物を買っている。
でも、物の問題でもない気がする。新しい物を選ぶにしたって、所々自然にクズの色に染まっていることに気付く。クズが好きだったブランドを選んでる。というか、趣味が被っていた。
この点なのだ、花束の映画と自分が共通してる部分って。

好きな人から何でも影響を受けたいって、今でも懲りずに思ってるけど、花束の映画の通り、何にも教えてくれなくてもよかった、とも思う。だって縁が切れたら、思い出すからね。
だから、好きでもない何の関係もない、Twitterなどの知らない人の書き込みとかから、自分の力で情報を得て好きなものを広げるようにしたい。
逆に、縁がずっと切れてない人から影響受けたものや貰ったものって、ずっと大切にしてる。

ここが、何でも盗作する奴らの理解不能なところでもあるんだろうな。
私の片鱗をいかにも自分の所有物みたいにして、満足なのだろうか?後から見返して、私のことを思い出さないんだろうか?私なんかのことを。
そのへんの脳みそのつくりが違いすぎて、何の情も無さすぎて、おもろいんだよな。

最後毒吐きのようになってしまったが、風邪気味なので休んでブログ書きました。
梅雨うっとうしい〜。

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