先生。

今日で、18年間の学生時代が終わって7年なので、「先生」という存在について書きます。

「先生」とは、文字通り「先に生まれた人」ってかんじなのだが、私は高校まで、尊敬できる先生と、ただ先に生まれただけのくだらない人間、と両方がいた。
心底尊敬できる先生と同じ時間を過ごしたのは、大学に入ってからだった。

私の親含め親戚には教員が多い。
何故だかわかんないけど、そういう血なのかなと思って、中学か高校の頃、テスト前の放課後勉強会とは名ばかりのぐだぐだ集会で、同級生に数学を教えてみたら「(私)の教え方、全ッ然わかんない!」と言われたので、私は教員に向いてないなと確信し、目指すのをやめた。
教員にならなかった理由はあと3つある。
自分が教える立場になるなんておこがましいと思ったのと、あんな先生にはなりなくないという対象がいたのと、大学での教職コースを取るのが嫌だったからだ。課題に専念したかった。

あんな先生にはなりたくない、そう思わせたのはまず小学校2、3、4年の頃の担任だ。
2年の担任は、子供嫌いのおばさんだった。おばさんのいない自習時間に、「監視をする」という名目で、教壇の前に監視カメラを三脚で立てた。
あと、私とつるんでた同級生に、私が冗談で「目ほっそ!」って言ったら、その様子をおばさんが見ていて、同級生が私に「でめきん!」と言い返したら、「そうだもっと言ってやれ!」とおばさんは言った。喧嘩を煽る教師。今なら録音でも録画でもしておくのになぁ。
3、4年の担任は、可愛らしくて賑やかな女の子だけをえこ贔屓していた体育の脳筋。2年間連続で担任だった悲劇。多分ろりこんだったと思う。当時30代前半。何かやらかしてたいほされてないかなぁ。私と同じく脳筋のことが嫌いな同級生とつるんでて、「(脳筋の名前)、しね!」という手話を調べて、遠く離れた席からアイコンタクトして手話をやり合っていた。おかげで「死ぬ」という意味の手話だけは今でも覚えている。

えこ贔屓する奴らが大っ嫌いになった。
高校1年の担任も、えこ贔屓をしていた。
高校から入ってきた、オシャレでコミュニケーション能力の高い同級生と、最初の頃は2人でつるんでいたんだけど、詳しくは覚えてないが何かを2人で成し遂げた時に、その担任が書いたクラス報にはオシャレな同級生のことしか書かれていなかった。その同級生も、やがて私をはぶいたんだけど。

母親のような教員にもなりたくなかった。
家の中ではヒステリック、仕事だけはちゃんとこなしていたようで、内弁慶にも程があった。
「こういう教員」、と言うよりは、「こういう母親」になりたくなかったのかもしれない。

そんな私が魅力的な先生に出会ったのは、小学6年の頃に中学受験をするために通っていた塾が最初だった。
理科と国語の先生。面白いキャラで、教えるのが大変上手かった。国語の先生はたまにキレていたのでベタ惚れまではいかなかったが、理科の先生にはストーカー的にガチ恋だった。
国語の授業で「デスマッチ」と呼ばれていた、問題文の感想か何かを書いて先生に見せて、OKだったら早く帰れる、苦手な子は21時半くらいまで塾に残って解くという、中学受験塾ではいかにもなことが行われていた。
私はさっさとOKもらって、残っている同級生を尻目に颯爽と帰る。その先生のOKをすぐにもらえるのが嬉しい。現代文だけは得意だった。
理科に関しては、文系であるにも関わらず、中学受験レベルの理科の成績が上がった。先生の教え方・記憶のさせ方が本当に上手かったからだ。
塾の廊下に貼ってあるポスターや席順をずっと見てるフリをして、理科の先生が通るのを待っていた。ほんまストーカー。人気な先生の後ろには、同級生が沢山ついて回っていたので、私は最後尾について、先生の歩いたあとを歩く。先生がよくオレンジ色のシャツを着ていたので、持っているペンはオレンジ色だらけになった。なお好きな人にグイグイいけない私は、高校まで好きな先生にわからない部分を1対1で聞きに行くことができなかった。

中学では地元の個別指導塾に通っていた。
大学生バイトが「講師」を勤めるその塾は、講師のあたりはずれが大きかった。
私は数学と英語を主に習っていて、どちらも女性だったが、普通の講師。
だが、何かの理由で担当の講師が不在だった時に、適当な男のバイトがあてがわれた。そいつも可愛い子にはベッタリで、私はぞんざいな扱いを受けた。更に、適当男は香水がきつく、ノートにまで香水のにおいがついていて、とても嫌だった。
高校に入ったら、小学生の時のような、集団塾に行こうと思った。周りに同級生がいた方が、競争が目に見えるので成績が上がると思い込んでいたのだ。
しかし高校生になった私は、クラス運がなく、ヤンキーとギャルばかりのクラスでうるさかったし、塾でもクラスが上がっていく同級生達がいてもお構いなしにだらけ続けた。座学自体が苦手だった。

中学3年の頃、学校が嫌すぎて遅刻常習・不登校気味になり、エスカレーター進学も厳しい状態で、親と私と学部長と担任で4者面談になった。
私は何とか高校に進学できたのだが、中学3年の頃の担任は、中学教員から高校教員になって、高校になっても「(私)はどうしてる?」と気にかけてくれた。優しい社会の先生だった。

高校になって、集団塾でまた好きな先生が現れる。現代文の先生だ。その先生は、教室内でサングラスをかけていて、坊主で、派手な花柄シャツを着ていることが多かった。話が面白い。その集団塾の先生達も、まぁみんなキャラが濃かったんだけど。
当時の私は、現代文の偏差値が72、その他の教科は40台だった。こんな偏差値の開き方ってあるだろうか。現代文だけ、ハイレベル現代文クラスにいて、周りの同級生は高校も進学校で早慶とか目指してる子達ばかりだった。あと、周りはみんな学校帰りの制服だが、私が行っていた中高は私服校だったし、後半は汚い金髪にもしていたから、それはまぁ浮いた浮いた。浮くことに慣れた。
ハイレベル現代文クラスの毎週の課題は、文章の要約だった。毎週その課題だけはめっちゃ頑張ったし、授業が月曜日にあったので、日曜の17時からお風呂に丁寧に入ってできる美容の限りを尽くし、早く寝た。授業中に寝たくなかったから。要約癖は、今でもほんのり残っている。
その現代文の先生の講義をいつも受けたくて、またストーカーのごとく、夏期講習や冬季講習はその先生がいる遠い校舎まで通っていた。だが、今の5ちゃんねるで該当スレッドを発見し、既婚であるという情報を得て、私ごときが少しがっかりしたと共に、ならばどの生徒にもとられることはないという安心感も生まれた。まじきもい。

大学に入って、素敵すぎる先生達と出会った。
先に書いておけば、

学生最後の先生達があんなに素敵で本当に幸せだった。

1、2年の基礎クラスでは、実技の担任はいたんだけど、それよりも「3つのD」と呼ばれる厳しい講義の先生達の存在が大きかった。
ドローイング、ドレーピングアンドパターンメイキング、あともう1つのDは忘れた。
ドローイングの先生は、後に院で担当教授となる方なのだが、私はドローイングの1回目の授業をライブでサボった。第一印象は最悪。整理番号1桁を持ってて、そのバンドのワンマンツアーを全通していたところだった。
1回目の授業の課題の内容をなんとか同級生から聞き出し、早朝3時くらいに起きて、2、3時間で片付けた。多面体の中にりんごを描くという内容だったのだが、その先生に遅れて出した時に言われた言葉が「うまいじゃん」。
その先生の、ほころんだ表情といったら。遅れて出したのに。とても嬉しかった。今まで何もできなかった自分の存在が認められた気がした。ここから、私は先生に褒められたいがためにも、課題を頑張ることになる。

高校3年の一時期、美大予備校にお試しで行っていた。デッサンを1枚描いたら、夜の21時くらいまで、ここに入らないかと勧誘の話をずっとされたことがある。それは私の素質なのか、お金儲けのためなのか知らないけど。
しかし美大や芸大に入るためには、何浪かするだろうという現実も話され、親が浪人を禁止したため、その道には進まなかった。
その時に習ったデッサンのやり方通りに、2、3時間でりんごを描いただけだった。

ドローイングの授業は2年にもあった。「うまいじゃん」と言ってくれた先生は、後の院長でもあるのだが、2年時のドローイングで私が好き放題描いていたら、「楽しそうだねぇ」と、またほころんだ表情で言ってくれた。
「楽しそうだねぇ」。この上ない褒め言葉だった。自分が楽しんで好き放題やっていることを褒められるなんて。
院長はすごく厳しい先生で有名だった。ディスる時は、多分意図的に生徒が傷つく言葉を選んでディスる。でも、褒める時はベタ褒めする。そんな飴と鞭の使い分けは、私に合っていた。

ドレーピングアンドパターンメイキング、略してドレパタ(パタンナーの授業)の先生は、カールラガーフェルドに似ていた。妻もその授業の先生をしていて、夫婦揃って赤いオープンカーに乗り、大学の通りを朝から走っていた。
なお院長は、若い頃からイケメンで一定のファン生徒がおり、モヒカン姿で授業していたらしい。芸術系の教授の一部はぶっ飛んでいて面白い。
ドレパタの先生も厳しかった。しかし、院長とは異なり、無表情無言で、駄作に対して無視していった。無駄な労力を使わず、身のこなしがスマートで、ハサミ捌きは芸術。褒める時も、もっとこうしたら上手くなれるよとシンプルに言うタイプだ。
私はドレパタがすごく苦手だった。4年間あったけど。自分はパタンナーには向いていないとすぐにわかった。ドレーピング用のシーチング(薄い普通の布)の扱い方がどうもわからず、布目に沿って形を作るということが難しかった。

大学3、4年の専門コースでは、モードクリエイションコースの中の、最も厳しいクラスに入った。
「最も厳しい」というのは後から知った。コース見学の時に、入ったクラスの担任が「自分で時間を管理すればライブにだって行けるよ」と言ったのが入った動機だった。しかしそれは、盛大なトラップであった…。
その先生は、後に院で私の担当教授になる女性で、ちゃきちゃきしていて小柄ながらパワフルで、院長と飴と鞭の傾向が似ていた。もう今は定年退職されているのだけど。
トラップというのは、3、4年になってわかったのだが、2年生がコース見学に来る時だけ生徒先生みんなにこやかにするように言われ、先生も2年生に説明する時はものすごく穏やかな口調で話す。
しかし現実は、就活する暇がないくらい、次々と課題と厳しい審査がボコボコあって、大体そのクラスからコンテスト入賞者が毎年出るくらいの実績でもあった。私はコンテスト運も無かったのだけど。
先生の名前にMがつくため、「MクラのMは(課題)ドMのM」という言い伝え的なものがあった。

私が1番輝いたのは、普段の課題でそのクラスの生徒人気投票常時上位者だったことと、学内コンテストだった。
詳細は省くが、本当に心身の健康を削って作った、学内コンテストの作品。ほぼ宅作業で完成させ、学校に持って行ってボディに着せたそれを見たM先生は、「すごいじゃない…」とため息混じりに言った。
やはり、ものすごく嬉しかった。
ぶっちゃけセックスより快感だった。先生に褒められるために生きてもいいとすら思った。それが永遠じゃないことはわかっていても。なんでこんなに褒められることが嬉しいかは、親から虐待されていたのが一因なのかもしれない。それと、自分を投影した嘘偽りない自分の作品を、プロに褒めてもらえることの達成感があった。
その作品は、学内コンテスト上位、ガラス張りの展示室にしばらく飾られ、院の時も褒められ続けた。

大学院は新設。自分の作風に合ってそうなので入った。1期生だから当然実験台。最初は3人いた院生だが、やはり課題が厳しく、1人ドロップアウトした。
大学院で初めてと言っていいかんじで接した教授達も、存在がかっこいい人ばかりであった。
おじいちゃんだけどしっかり叱りも褒めもする教授(私に度々電話かけてた)、教え方がユニークで音楽好きの金属のイケメン教授、デジタルもアナログもできてアイディアをどう具現化するかに特化した教授、など。
特にデジタルもアナログもできる教授は、ドレパタの先生と雰囲気が似ていた。できない生徒はもう何も言わず放っておく、提出期限過ぎたらどんなに懇願しても受け付けない、バッサリしていて且つシンプルな人だった。

なんでこんなに大学院の教授達に憧れるか。
それは、教授達の作品や作品タイトル、作っている姿を見てきたからだ。
ものすごい技術と、ものすごいアイディアと、ものすごいセンスと、ものすごい要領の良さと、ものすごいテーマとコンセプトと、ものすごい教え方と、ものすごい言葉のチョイスで、雲の上の人達だった。
本当に全員かっこよくて、そんな環境下はとても贅沢だったと思う。
大学院2年時の修了制作個展を行うにあたっての担当教授は、院長とM先生を選んだ。どちらも厳しい目で見てくれるので、作品のレベルが上がると思っていた。

しかし私は、院2年時の春から就活を1人で始めた。情報収集も、SPIも、面接の仕方も、全部1人で調べた。もう1人の同級生くんは、「就活で修了制作が中途半端になるのが嫌だから、就活は修了してからでいいや」と言っていた。
その時私は、「バカだな〜こいつ。そんなん時既に遅しなんよ」と甘く見ていたが、10月くらいになって一気に差がついた。私は一応内定をもらっていたが、自分に向いてなさそうな職だったから就活を続けるつもりでいた。けど、
就活なんてやってる場合じゃない。これじゃあ個展はできない。
と焦り始める。同級生くんの言う通りだった。
クリスマスも元旦も半ば泣きながら個展作品を作り続け、ライブの予定は半減した。
結果的に、私の修了制作個展の成績はものすごく悪かった。

院の教授達が、私の修了制作個展について、辛辣なアドバイスを書いた書面がある。学部の卒ショーのDVDもある。
でも私はどちらにも目を通していない。
何故なら、それに目を通すことで、学生時代が完結してしまう気がしているのだ。
私は憧れの先生達に出会って、一生生徒という身分でいたいと強く思っている。今でも。
ずーっと、先生達に憧れていたい。ツイッターでしぬほど書いたけど、先生に褒められるために生きていたい。
私の猿真似をしてばかりで、何の魅力もないガキみてえな奴らは放っておいて、憧れの存在だけを目指し続けていたい。ずっと上だけを見ていたい。

先生、そんな風に思わせてくれて、知らない世界を沢山見せてくれて、ありがとうございました。長生きしてください。

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