ドキドキ!プリキュア~博愛の理由~【16】

44話は、レジーナ説得シリーズのラスト。六花の番です。

発注の段階では、マナと六花が珍しく喧嘩をしてしまうけれど、プリキュアを分断して倒そうとするレジーナが介入したおかげで、二人は友情を再確認するというお話でした。それが準備稿の段階で喧嘩の要素がほぼ消えて「離れ離れになっても二人は心で結ばれている」という筋書きになりました。

「愛してる」という台詞は、準備稿の段階ではマナメモの一回だけです。それが「六花側もマナに台詞で気持ちを返すべきだ!」「いや、いくら相手がマナでも六花の性格からして面と向かって言うハズがない!」「では心の声で…」という白熱したディスカッションを経て六花の台詞が追加され、更に「最後は六花とレジーナで本音をぶつけあうのはどうだ!」「それをたまたまマナが聞いて…」「それは恥ずかしい! 採用!!」という、本読みに参加していたスタッフ全員のベクトルが揃った結果、ああいうシーンが生まれました。そんな坩堝(カオス)の中からあの物語を精製したのは、間違いなく高橋ナツコさんの実力というか手腕というか。

一方、そんな特濃なシナリオが出来あがったおかげで、一部の方々からは「レズだ!」「ドキプリ尊い!」となど絶大な評価(?)をいただくことになったわけです。楽しみかたは人それぞれですし、それ自体を否定するつもりはないのですが、敢えて言わせて貰うとするなら「そこは目指していない」ということです。

今一度、鷲尾プロデューサーがプリキュアの基本理念として掲げたキーワードを思い出してください。

「女の子だって暴れたい!」

プリキュアの視聴ターゲットである未就学児童は、男女の差はほとんどありません。公園でも、幼稚園でも一緒になって遊ぶし、たとえば男の兄弟がいる家庭であれば、日曜日の朝は戦隊・ライダーの流れで一緒にプリキュアを見ているハズなのです。

更に言うと、近年のプリキュアは「性」を感じさせる描写は極力避けるようにしています。彼女たちの胸はほとんどフラットですし、シャワーや水着といった肌を露出する描写も基本的にNGということになっていました。つまり、彼女たちは性を剥奪された存在なのです。

そんなプリキュアという作品の枠の中で、いくら「好きだ」「愛してる」と言ったところで、そこにはホモもヘテロも存在しません。小さい娘が「パパ大好き」というのと大差がない、とても無邪気で、無色透明で、あらゆるものに平等に注がれる愛…すなわち博愛なのです。

さて、細かいネタをいくつか。準備稿では「ひとつのマフラーを一緒に首に巻いて暖めあうマナと六花の子供時代の回想」シーンがありましたが尺の都合でカット。クレーンゲームは「ワンコインで景品を取れる男はモテる」というナツコさんの意見で採用。レイアウトの段階では、実は全部クマのぬいぐるみだったのですが、演出の鈴木裕介さんが頑張ってカエルに変えてくれました。「あ~りませんか」は田中真弓さんのアドリブですが「滅入り苦しみマス」はシナリオの段階で存在します。

今日はここまで。それではまた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?