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映画『夜明けのすべて』について語りたい

待ちに待った映画『夜明けのすべて』公開日。
観てきました。

観る前、感想はおそらく書かないだろうなと思っていた。
心の中に大切に大切にしまっておきたいだろうなと。
でもなんだろう。
細かいところひとつひとつが素敵で、本当に丁寧に丁寧に"大切"が込められてるのが伝わってきて、この感動は言葉にしておきたい。

まず序盤。
まだ山添くんと藤沢さんが打ち解ける前。
ふたりが同じ空間にいて、でも言葉はなくて、ゆっくりと表情が映されている。
その表情からすごく心の声が流れ込んできた。
あ、きっと今不快に思ったんだろうな、でも我慢したのか。
今きっと精一杯自分を落ち着かせて、大丈夫って言い聞かせてるんだろうな。
今絶対なんだこいつって思ったでしょ。
そんなふうにセリフがないまま自分で心の中を察する時間が楽しかった。
そして感じたのが、これ普段誰もがやっていることだよなと。
社会で生きていく中、毎日誰かと接していて、それは全部が自分の思い通りとは限らなくて。
職場で、電車の中で、バスの待ち時間で、スーパーで、きっと誰もが心の声をぐっと押さえてすまし顔をしている瞬間があるはず。
こんなちょっとした気遣いや我慢も誰かへの"優しさ"と考えてもいいのかもな、と思った。

そんなちょっとしたことさえも"優しさ"と表現してしまったけれど、藤沢さんはこれでもかというくらい優しい。たぶん心の底から優しいうえに気遣いの人だなという印象。
甘いものが苦手(本当は生クリームが苦手なだけだけども)な人へ甘くないものを、と考えてお漬物を渡す20代に思わず笑ってしまった。
このお漬物を渡すシーンが私はとても好きで、ふたりともとてもぎこちなく遠ざかりながらぺこぺこしてる姿が"他人感"満載でおもしろかった。
山添くんなんてどれだけ背中丸めて膝曲げてるんだか。
背が高いから余計に縮こまりたいのが伝わってきた。

栗田科学の人たちいいな、と最初に思ったのは
藤沢さんが山添くんにイライラをぶつけ始めたときに後ろでそっと他の人たちが動いてくれたとき。
誰が声をかけるのがいいのか自然とわかっていて、押しつけとかじゃなくさりげなく動けるのが素敵だと思った。
ご飯のお誘いひとつとっても、行けるときの「嬉しい」、断るときの「じゃあまた今度」、言葉の端々に優しさがこもっててとても温かい。
たしかに物語はパニック障害の山添くんとPMSの藤沢さんがメインなんだけれども、そのふたりだから特別に優しくされるのではなく、この会社には当たり前のように人への温かさがあるなと度々感じた。

山添くんが最初にスクリーンに映ったとき、正直思わずゾッとした。
やる気のなさというより生気のなさ。
なんか周りの空気まで重くて暗くてどんよりして見える。
だけど声をかけられれば短いけど返事はするし、お辞儀もする。
たぶん本人的には周りをぞんざいに扱っているつもりはなくて、これが彼の精一杯なのかなと思った。
自宅にいても電話をするにはきっと何か別のことをしてないと耐えられなくて。
そんな状態なのに元上司には今の仕事にやりがいがないと語り、友達には強がりを語る山添くん。心の中はどれほど痛いだろうか。
北斗くんが"山添くんは隠すことで自分自身にも隠せるようになるんじゃないかと思ってる"と語っていたのを思い出した。
その痛みまでも抑え込んで無視してないものにしているのだろうか。

山添くんの彼女さんが、山添くんの隣で矢継ぎ早に質問しているのが見ていて辛かった。
きっと彼女が山添くんを心配しての行動なんだとわかるのに、それが山添くんを苦しめているのが目に見えて辛かった。
だって、炭酸もガムも山添くんが精一杯自分でいられるように毎日を何ごともなく終えられるように手にするアイテムなのに。
早くどうにか良くなりたいと願っているのは誰よりも山添くんなのに。
ちらっと諦めのような悲しみのような感情を浮かべて口を閉ざした山添くんの表情が忘れられない。
優しさは難しい。
誰かの優しさが時には辛くて苦しい。
もしかしたら、関係性が近いほど優しさが行き違ってしまうのかもしれない。
心配が大きすぎて。もどかしくて。
盲目的な優しさは自己満足でしかなく、優しさではないのかも。
なんて、考えてしまう。
自分は優しさに見せかけた傲慢を押しつけて誰かを苦しめてないだろうか。
うん、さすがに傲慢は言い過ぎな気がしてきた…。
彼女とアパートで話すシーンの最後、山添くんが決心したように溜めて発した「…わかった」。
これがまた山添くんの動揺と決心が手にとるようにわかって心がぎゅっとなった。
彼女はもう、わかりやすく山添くんに優しくなかった。
それが彼女なりの終わりかただったのかもしれないけど。

そんな優しさのちょうど良い距離にいたのが山添くんと藤沢さんなんだと思う。
"たまたま隣の席に座ってるだけ"の関係。

原作でも好きだったふたりのテンポよい会話。
そのきっかけにまず動いた藤沢さんに大きな拍手なんだけれども、自転車はいらないって断りながらも髪切ろうかの提案には乗る山添くんもやっぱりちょっとおもしろい。
前は美容師だったんですか、のやりとりがふたりとも淡々としてて好き。
あとこれは北斗くんファンとしての余談なんだけれども、床に敷くビニールを丁寧に丁寧にのばす仕草がとっても北斗くんで可愛くて好きすぎた。
散髪シーンでは山添くんの爆笑とともに私も笑って。
このとききっと藤沢さんも、なんだこの人感情出せるんじゃんって安心したんじゃないかな。
髪の毛をジャキジャキって切る音はなんだかすごく響いたように聞こえて、それがまた心地よくて。こちらも息をとめて見守ってしまった。
"髪を切っただけ"のはずなのに、散髪後の山添くんはただ"髪を切っただけ"ではなく少し明るくなったように見えたのはすごかった。
あの1発目の切り方からどうやってまともな髪型に落ち着けたのか、その過程がすごく気になるのだが。笑

とてもリアルだなと思ったのが、調子が良くないときの藤沢さんの風貌とお部屋。
ダメなときってほんとボサボサだしグチャグチャだし。そんなの気にする余裕もないし。
だから山添くんが藤沢さんの忘れ物を届けに来たとき、ちょっと嫌かもって思ってしまったんだけど、ちゃんと会わずに帰ったことにほっとした。
"ふたりが恋仲に見える可能性が消えるよう何度も何度も気遣った"というなんとも心強い言葉を読んで、安心して今日という日を待っていた。
その期待と信頼は裏切られなかった。
山添くんのお部屋でふたりが過ごすシーンでもそれは感じられて、藤沢さんが残ったお菓子をそのままザーッと口に流し込んだときはさすがに笑った。
豪快すぎるでしょ。やっても自分の家でひとりのときにやるやつじゃん。
心の中でツッコんだ。
山添くんも、すごい体勢でパソコン見てるけど首と腰痛くない??
でもこれがこのふたりの本当で、こういうちょっとしたことにたくさんのこだわりと誠実さが詰まっているのだと感じた。
(また余談。画角に入るか入らないかのところで前屈をしているときの手がとっても可愛かった。どうしても触れておきたい可愛さだった…)

原作と変わった部分のひとつに山添くんと元上司の方の距離感がある。
これがどちらもいいなと思っていて。
映画では環境が変わった山添くんをわかりやすく気にかけてくれていて、戻りたいと思う山添くんには準備を進めてるよと言ってくれるし、今の仕事をキラキラした目で語る山添くんには思わず涙ぐんでくれる。休日には外へ連れ出してくれて、寒い季節なのにお店ではテラス席に座ってくれる。(外で会えるようになったのも変化のひとつなのかなと思ったのだけどどうなのだろう。)
行動の全てに当たり前のように山添くんを大切に思っていることが滲み出ていて、素敵だった。
もちろん、自身の抱えるものも影響しているのかもしれないが、ただの元部下にここまでしてくれる人ってなかなかいないと思う。
彼の口だけではない優しさもまた、山添くんを包んでくれていた。
原作のそっと御守りを届けるような遠くから見守る優しさもとても好きだった。
前の会社で目一杯働くことは出来なくなってしまったけれど、そこにいたことが無駄ではないと思わせてくれる存在。あったかい。

藤沢さんとお母さん。
このふたりの優しさのやりとりも心地良い。
煩わしいこともあった優しさ。
それでもたくさん救われたこともあるだろう。
雨に濡れないように自分のコートを娘と自分に被せて笑ったときから、このお母さんに惹かれている。
時を経て、体が思うように動かせなくなっても
お母さんの優しさは形を変えて届く。
その度にありがとうの電話があって。
そんなお母さんのために仕事を変えて一緒に暮らそうと決心するのはとても藤沢さんらしいなと思った。
私だったら無理、という友人がいたように、誰もがそうできるとも思わないし、それだけが正解ともいえない。
だけども、それまでのやりとりと藤沢さんの持つ強さがそうだろうなと思わせる。
藤沢さんは優しくて強い。
どうにもならない自分と闘いながらずっと一生懸命に生きている。
そんな藤沢さんの隣に、好き勝手言える山添くんがひとときでもいてくれたことで、少しは楽になっただろうか。
お母さんとの日々に少し疲れたとき、栗田科学での日々がふと彼女をほぐしてくれたらいいなと思う。

序盤表情からたくさんの心情を推測した場面とは対照的に、山添くんがパニック障害を発症した日のことを淡々と語る場面ではふたりの顔が見えないのが印象的。
本当に"淡々と"語る。
その声にひたすら耳を傾ける時間。
なんだか、このときにはもう山添くんが自分のパニック障害を受け入れているような気がした。
その隣にはさらっときっかけを聞く藤沢さん。
ふたりの中でお互いの病気の話が出るとき、さらっとしているのがとてもよかった。
「病気にもランクがあるんだね。PMSはまだまだってことか。」
かなり抉られたはずなのに、ここで藤沢さんが諦めないでいてくれてよかった。

「夜についてのメモ」がまた良い。
藤沢さんの心地良い声で語られる「夜についてのメモ」からプラネタリウムは終わりに向かっていて。
スクリーンに映っているのは山添くんで。
北斗くん(ここはあえて北斗くんと呼びます)のお顔が半分は光に照らされていて半分は影が落ちていて、とても綺麗だった。
まるで、朝と夜、どちらも表現しているようで。
"同じ夜や同じ朝は存在し得ない"
"喜びに満ちた日も、悲しみに沈んだ日も、
地球が動きつづける限り、必ず終わる"
最後、山添くんの口元が動いたとき、ふたりが出会えて本当によかったなと思った。
(このとき、口角が"上がる"のではなく"下がる"ことで喜びを噛み締めてるように見えてだいぶ痺れました)

原作を読んだとき、最後山添くんが風を切りながら自転車に乗るところが清々しくて心に残っていた。
その清々しさが映像で感じられて嬉しい。
本当に気持ちよさそうで、こちらまで風の気持ちよさが伝わってきて。
できることが増えるってこんなにも人を気持ちよくさせるんだな。
最初はノロノロと表現したくなる遅さで猫背で俯きがちに動いていた山添くんが、だんだんと真っ直ぐになってきて。朗らかな返事をしながら小走りに動いた終盤、もう生気のない顔をした山添くんはいなかった。
この会社には染まらないという強い意思表示のように頑なにひとりカーディガンとスーツと革靴だった山添くんが栗田科学のジャンバーを羽織った瞬間、嬉しさでにやけてしまった。
たいやきの差し入れを喜んでもらったときの嬉しそうな表情といったら。
藤沢さんは隣にはもう居ないけれど、山添くんは栗田科学のあたたかさの一部となった。
パニック障害が治ったわけではない。
炭酸水はまだ手放せないし、また不意に不安でいっぱいになる瞬間がきっとくる。
それでも、今という時間を楽しそうに笑う山添くんの姿がここに存在している。
それがただただ嬉しかった。

この映画はあたたかい。
そして好きな瞬間がたくさんある。
電車に乗ろうと葛藤してでも人が来ちゃってさりげなく隣に移動する山添くんとか、自転車と一緒にちゃんと空気入れまで渡す藤沢さんとか、ラジオ体操のあと藤沢さんに何か言いたげな山添くんの後ろ姿とか、ヘルメットの前後を間違えちゃう社長とか、会社の良いところを聞かれて首を傾げるおじさん達とか。
ふと音がなくなる瞬間とか。
ほんとに隅々まで好きが散らばっている。
温かい人たちも映画に込められたたっぷりの愛情もまるごと好き。
あたたかくてあたたかくて、映画が終わってしまうのが寂しかった。
エンドロールの文字が流れる中、ずっと栗田科学のお昼休みを眺めながらまだ終わらないで、と思っていた。
寂しくて寂しくてたまらなかった。
そんな、素敵な映画だった。

今の世の中って本当に難しい。
簡単に頑張れとか言えないし、あらゆる話題で誰かを傷つけていそうで、配慮し始めたらキリがない。
そんな世の中だから、
北斗くんの言葉を少し借りると"自分の手に届く範囲の人"には笑っていてほしいと思う。
私の手に届く範囲なんてほんとにほんとにちっぽけだと思うけど。
そんな笑っていてほしい人と隣に並んで観たい
映画『夜明けのすべて』だった。

おわりに

映画のあたたかさに突き動かされて、帰宅早々我が子を連れてお散歩へ。
全然違う街並みなのに、ひとつ角を曲がったら栗田科学があるんじゃないかと思えた静かでぽかぽかな平日の午後。
差し込む光の色が本当に素敵だったから探して歩きたくなった。
ふわふわな気持ちが幸せだった。

勢いで書いてしまった感想を眺めながら、こんなにあれこれ考える映画だったのだろうかとふと思った。
これって本当に映画を観たそのときの感想なのかと疑ったりもした。書きながら新たに考え続けてしまっている気がして。
だけども2月10日の舞台挨拶で、三宅監督が「観客のみなさんもたくさん想像しながら観ると思う」と言い、北斗くんが「家に帰ったらまた違うことを思うかもしれない」と言ってくれた。(ごめんなさいニュアンスです)
ああ、私の楽しみかたも間違ってなかったな、なんてここでも救われた気持ちになった。

この映画が本当に素敵で、なんだか北斗くんだけに言及するのがもったいない気がして。
だからたった一言。
この素敵な映画に溶け込む北斗くんの姿がとても嬉しかった。

温かくて優しい現場の空気の良さがそのまま伝わってくるような『夜明けのすべて』を届けてくれた三宅組のみなさんにありったけのありがとうと盛大な拍手を。

映画『夜明けのすべて』に出会えてよかった。

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