白石晃士小論

 Jホラー的な恐怖の中心には、陰翳礼讃の「日本的」な恐怖演出や、メディアやテクノロジーを媒介して呪いが感染していく、という無差別性があった。それに対し、一般的にはJホラーの衰退期とされている二〇〇〇年代後半以降の、黒沢清『叫』、清水崇『輪廻』『戦慄迷宮3D』『ラビット・ホラー』、高橋洋『恐怖』などは、Jホラーの「もう一つの臨界点」の可能性を示していた。そこでは「過去のトラウマという迷宮」と「ホラーというジャンルの迷宮」と「映画を観るという欲望の迷宮」の三つの次元が絡み合いながら、あたかも重力崩壊を起こすように、超絶的な「どこにも外部や出口のない世界の怖さ」が表現されてしまっていたからである。狂気のようにラディカルな、構築的迷宮性。

 この世界には何らかの外部はないし、出口もない。それは物語内の演出や表現による怖さではない。この世界が在ることそれ自体への根源的な慄き、である。その慄きを通して、この出口なき世界の「外」の虚無性の手触りがかすかに感じられる。怖ろしいのは幽霊や呪詛や怪異ではない。虚無としてのこの世界の外部=神――この世界の外には何もない、あるいは、「無が在る」!――こそが真に怖ろしいのだ。しかしその後、Jホラーの命脈は本格的に衰滅してゆき、その可能性もいつしか死産したかに見える。

 そんな中で、Jホラーの突然変異=鬼っ子としての白石晃士は、きわめて精力的に、時代の最先端を切りひらくような映画と映像を撮り続けている。特に近年の白石は、神という問題に愚直なまでに対峙することで、『叫』『輪廻』『恐怖』等にありえた「もう一つのJホラー」の慄きを――白石自身がたとえ日本のホラー映画をあまり好んでいないとしても――継承し、更新しているように見える。

 白石は「世界一フェイクドキュメンタリーを撮っている」という自負を少しも隠さない(『フェイクドキュメンタリーの教科書』)。リュミエール兄弟の伝説的な映像を前にして、当時の観客たちは、スクリーンから客席へと列車が飛び出してくる、と驚き、逃げ惑ったという。映画とは、その誕生の時点から、現実と非現実の境界線を激しく揺るがせるものだった。記録映画/ドキュメンタリーもまた、客観的対象をありのままに映してきたわけではない。そこにはヤラセやプロパガンダなどの問題がつねに付きまとってきた。フェイクドキュメンタリーは、Mock(見せかけ、偽物、まがいもの)+ドキュメンタリーの合成語であり、モキュメンタリーとも呼ばれる。シリアスな現実と大嘘の馬鹿馬鹿しさの間をつねに揺れ動いてきたのだ。何重にも捩れたフェイクドキュメンタリーという不埒でいかがわしいジャンルは、現実と非現実の関係を自己言及的に再審し続けるのであり、それは同時に白石監督にとって「原初の映画がはらんでいた魔力を、現代に甦らせようという試み」でもあった。

 では、フェイクドキュメンタリーの手法によって迫るべきホラーの本質とは、何だろう。白石にとっての、究極の恐怖。それは何か。端的に言う。それは神である。ひとまず白石の映像宇宙において、神とは、無数の触手が絡まり合った不気味な存在であり、幾つかの作品内では霊体ミミズやヒルコと称されている。では、B級の素材やフェイク性だけを組み合わせ、寄せ集めて、重層的な非真理性の上に神的映像を降臨させるとは、どういうことか。宗教的な神と映像論的な真実を同時表現することは、どんな場所に我々を連れていくのか。

 代表作の『オカルト』(二〇〇九年)は、次のようなフェイクドキュメンタリーである。通り魔殺人の被害者となった江野祥平は、冴えない派遣社員であり、住居もなく、ネットカフェに寝泊まりしている。しかし江野は、ある通り魔事件に巻き込まれ、背中を刺されることで、神聖な使命を託されたという。事件後、彼の周囲では、様々な超常現象が起こる。江野のひそかな最終目的は、じつは、神の命令に従って、渋谷のスクランブル交差点で「儀式」としての無差別殺人を実行することだった。無差別殺人によって、自分も犠牲者たちも、別次元の神の許へと導かれる……。犯罪被害者としての江野の様子を記録していた白石監督は、当初は江野の言動や人格に懐疑的だったが、やがて儀式の共犯者になり、彼の犯行の一部始終を記録することを決意する。

 神への信仰によって自爆テロを試み、「うんこみたいな人生」を超えること。江野の姿には、若い時期の白石監督自身の姿がはっきりと重ねられていく。上京後、派遣の仕事で日銭を稼ぎ、家賃にも困るほど貧乏で、協調性がなくて、派遣先にも馴染めなかった。渋谷の街を歩くカップルを見ては、ぶっ殺してやる、という鬱屈を募らせていった。

 白石にとって、映画を撮るとは、そうした無差別の殺意のリミットで、自らの殺意を祈りへと限界突破させることだった――そして驚くべき偶然というべきか、『オカルト』の撮影直前に、秋葉原で加藤智大による無差別殺傷事件が起こって、現実と虚構がさらに捩れていった。

 映画の中では、江野による儀式的テロは、死者一〇八名、負傷者二四五名という未曾有の大惨事を引き起こす。江野の遺体は見つからず、白石監督もまた共謀罪で逮捕される。その二一年後。刑務所から出た白石のもとに、江野が爆破時に持っていたハンディカメラが落ちてくる。カメラの中には、江野視点の最後の映像が残されている。じつは、江野が最終的に行き着いたのは、天国のような場所ではなく、ヒルやクラゲがうようよと浮かび、犠牲者の首がくるくると回って苦しみ、サイケデリックでグロテスクな、馬鹿馬鹿しい音楽が鳴り響く「地獄」にほかならなかった。「白石くん助けて!!!」。

 この世を超えた別次元。白石監督の言葉を借りれば、それは「とてもじゃないけどいい意味でも悪い意味でも崇高なものや凄いものではなく、人間の価値観で見ればバカバカしくてアホみたいで酷い場所」だった。江野と白石監督の、生真面目なまでに思いつめた精神が、現実のバカバカしさによって突き放され、自分たちの倒錯的欲望を客観視させられていく。そこには確かに、ぎりぎりの人間的なユーモアが宿っている。無差別殺傷へと至っていく精神をその臨界点において笑い飛ばすこと。だが他人の命懸けの行動を批評する白石監督の言葉には切迫があり、地獄に落ちた野郎どもをたんに他人事として笑い飛ばせるわけではない。そこにはやはり「ものすごく怖い」ものがある。

 白石にとってフェイクドキュメンタリーとは「映画の核心」に迫るために必須の手法である。白石は敬虔な信徒のように告白する。「映画に出会わなかったら、映画を作っていなかったら、私の人生はクソでミジメなものだったでしょう。だから私は、死ぬまで映画に尽くします」。しかし同時に、自らが陥る生真面目さを彼はこう突き放す。フェイクドキュメンタリーは「私がたまたま手に入れることのできた有効な武器」であり、「このフェイクドキュメンタリー・マシンガンで、今後もダダダと撃ちまくります」。ここでも映画という神への祈りが無差別殺傷の比喩――「ダダダ」――へと反転していく。

 『オカルト』は悲惨な地獄に行き着くが、同じく神の命令に翻弄される殺人者を描いたもう一つの代表作『ある優しき殺人者の記録』(二〇一四年)では、最後に、平行世界において死者全員が甦り、これまでの映像全体がその奇跡の記録となる。新海誠の作品と比較すれば前者は『秒速5センチメートル』に、後者は『君の名は。』にあたる、と言えばいいだろうか。しかし、白石的宇宙が怖ろしいのは、神の眼差しにおいてはどちらの結末も全く等価である、というみもふたもない(非最善説的な)事実のためだ。

 『オカルト』でも『ある優しき殺人者の記録』でも、最後に神がその姿を顕す。ただしそれは一神教や多神教やアニミズムのそれではなく、ラヴクラフト的な異形の神々=邪神のようなものだ(現代の神学的映画の臨界点をなす『ミスト』のクリーチャー、『メッセージ』のヘプタポッドなどと霊体ミミズがよく似ているのは、たんなる偶然なのだろうか?)。人間的な倫理や共感を絶縁するグロテスクな神においては、A級とB級、地獄と天国、恩寵と悪意の違いはどうでもいいものとなる(事実フェイクドキュメンタリーの手法は、必ずしも低予算ゆえに要請されるとは限らない。たとえば『クローバー・フィールド』は全編を手の平サイズのビデオカメラで撮影し、手ぶれしまくる粗雑でチープな映像を用いつつ、そこに最新の技術革新に基づくVFXを融合させる、という新たな映像表現の地平を切り開くものだった)。

 現代的な神話体系の創始者となったにもかかわらず、ラヴクラフトは「絶対的な唯物主義」だった、とM・ウエルベック[SS1] はその小説的評伝で強調している(『H・P・ラヴクラフト』)。だがそれは唯物論や無神論とも少し違うだろう。そこには人間を無意味に翻弄し殲滅する〈唯物的な神〉とでもいうしかない摩訶不思議な絶対矛盾があり、「大いなるクトゥルフとはなにか? わたしたちと同じように、電子の配列のひとつだ。ラヴクラフトの作り出す恐るべき存在は、どこまでも物質的である」。ならば、映画とはまさに〈神の唯物論〉の実践であり、手元の安価な映像端末は邪神の触手そのものである。

 誰もが安価な機材で「撮影者」となりうる二〇〇〇年代以降の映像環境の下では、この現実の何もかもが出来損ないの悪しきB級映画にしか感じられなくなる。それは全人類が引き受けるべき生存環境にすぎないが、革命的なチャンスにもなりうる。手元のスマホの粗雑な映像でだって、神が撮れるはずだからだ。

 人生は苦痛と嫌悪の過程にすぎず、絶対的に無意味である。生ばかりか死もまた。無感覚に等しい倦怠と諦念。退屈な虚無主義。ラヴクラフト的神話の創世の後、それもまた人類のデフォルトにすぎなくなった。だがそこに神の声が響く。うんこのような人生なら、せめて殺すように撮れ。無意味に他人を殺戮するその瞬間にこそ、神に敬虔に真剣に祈れ。無意味な殺意と神への真剣な祈りが縺れあい、自然を超えた雑然となって、複合的リアリティの果てに非人間的な神のイメージが降臨する――。

 日本でナイト・シャマランに匹敵するのはやはり白石なのだろう。たとえば疑似ドキュメンタリー風の正統な幽霊屋敷ホラーだと思っていたら、最後に唐突にクトゥルフ神話調のB級バトル映画のプロローグとなり、自作内クロスオーヴァー作品へと転じていく、という『カルト』は、シャマランの『スプリット』と同類の想像力に基づく。

 ハンディカメラなどによって撮影者の主観に映像全体を限定する、というPOV(ポイント・オブ・ビュー)の意味を白石は拡張し、人間でも悪霊でも事物でも、映画においては何でも主観となりうる、と言う。ならば、神の主観もあるだろう。フェイクドキュメンタリーは私たち観客に、無慈悲な神の眼差しを追体験させる。観客は地獄を見る、宇宙も見る、平行世界も見る、神的唯物論としてのカメラ映像において全てを経験させられる。白石が複雑な意味でのファウンド・フッテージ(発掘素材もの、誰が撮影したかわからない映像が発見されたという形式)を好むのは、そのためではないか。

 この世界を霊体ミミズの目(?)に映る映画として受け止めること。「クソでミジメな」「うんこの人生」を当たり前に引き受けながら、それを非人間的な次元で祝福し、生を「儀式」と化すこと。実存的にも映像論的にも、「最低」と「最高」が奇跡的に一致する瞬間を目掛けて。

 もちろん祈りや殺人によって救われるとは思えない。だが、無差別に殺すことでしか祈れない、そんな人間がこの世界の片隅には無数にいるのだ。そして何より、神の降臨には、「観客という共犯者」が必須である。あの「優しき殺人者」が泣きながら懇願したように、観客もまた唯物論的な神を信じるかどうかを、今ここで、迫られてしまう。神の眼差しを追体験しながら、監督と映画内人物と観客が奇跡のように出会い直す場、それが「映画の核心」であり、恐怖それ自体なのだ。

 近年の白石は、新たな神の形象の創造にすら、敢然と挑んでいる。驚くべき傑作『貞子vs伽耶子』(二〇一六年)では、バケモノ同士が肉弾戦のあげく融合し、意味不明な何かがこの世界に爆誕するだろう。爽快な馬鹿馬鹿しさと崇高さが雑然と交じっていく場所で、我らの愚劣な現実を哄笑とともに祝福し尽くすこと。『貞子vs伽耶子』は、Jホラーの原理的な限界を、異なるOS同士のクロスオーヴァーによって内側から爆破し、その先に――マーベルやDC、ダークユニヴァースのように――未曾有の宇宙を創世してしまった。

 どうかこの世界を信じてくれ。だが美しく調和した善良な世界ではない。最悪の出来損ないのB級映画にしか思えないこの世界を。映像技術の進化の最先端で、敬虔な信徒と無差別殺戮者が見分けがたくなっていくゾーンで、白石監督は啓示としての二一世紀の映画を、あたかもカントやラヴクラフトのように、人間と人間以上の存在へ向けた供物として、差し出している。

 *初出「現代思想」2018年3月臨時増刊。その後『神と革命の文芸批評』(法政大学出版局)に収録。

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