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だったら子どもはみんな”メンヘラ”なのか。

30歳を目前にして、「寂しさ」についてよく考える。

僕の幼馴染にセクシュアリティがぶれ始めた女友達がいる。こちらから言わせると昔からずっとぶれてると思うんだけど、彼女的にはそれを自認するのが大きなターニングポイントだったようで、どうにもこうにも今不安定だ。

「今の彼氏と別れた。私、女の子が好きかもしれない。」

酔ってかけてくる電話は、録音したテープを流してるんじゃないかと思うほど同じ内容から進展しない。電話がかかってくるたびに、

「周りから見ても、付き合ってるとは言えなかったよ?それに君が女の子を好きでもなんの疑問もないよ?昔からそうじゃないかとは思っていたし…」

と、こちらも同じような調子で繰り返す。その度彼女は涙声になり、迷子みたいにおどおどし、決まって最後は酔って電話をしてきたことを謝りながら電話を切る。寂しさが過ぎるな、とついこちらも嫌な顔をしてしまう。

メンヘラという言葉が浸透してからというもの、こういう行き場のないやるせなさや、寂しさを人前で見せると、”メンヘラ”の一言で片付けられてしまう。自分も”メンヘラ”にはなりたくないから、寂しくてもぐっと我慢する時がある。こんな言葉なくなってしまえば、みんなもっと生きやすいのに。

彼女を見ていてイライラするのは、彼女が渦中にいる寂しさを嫌という程自分も理解できるからだ。え、俺もお前と同じ気持ちなのに、なんでお前はそんな簡単に寂しい!とか言えるんだよ畜生。と心の中で毒づく。

正直なところ、年齢なんて関係なく、孤独は不意に人生を蹴り飛ばそうとしてくるし、寂しさなんていつ背後にまわって殴りかかってくるかわからない。なんの予想もできないから、不意打ちされた時は泣くしかなかったりする。だから彼女の反応は至極真っ当なものだと思う。

けど悔しい。そんな子どもみたいなことやっていいなら、俺もやるよ。と思うけど、大人になった友達はそんなに甘くはないから、ほどほどにしないと周りから誰もいなくなってしまう。

仕事がうまくいかない、恋人と別れた、将来が見えない、意味もわからずどうしようもない。こんなとき、お母さーん!!って全部投げ出して、子どものときみたいに抱きつけたらどれほど楽か。それができないから大人は辛い。

寂しさは、大人の視点に立てば漠然とした恐怖じゃなくなるんだろうか?やっぱり年齢は関係ない気がしてきた。それでも彼女も自分も、自分の足で歩いていくことを学ばないと、寂しさとは友達になれない。ならなくてもいいんだけど、なれたら多分今より人生が面白い顔をしてくれそうな気がする。希望を込めて。


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