娯楽図1

人と人がつながりあうのって難しいよねって話

これは僕が以前Amazon Kindleで出版した
「ソシュールを基にした、主体と客体・客体同士のかかわりの分析 第一節・第二節 」
をもっとわかりやすく面白くかみ砕いたものです

純粋な哲学本というより、
それらを基にして僕なりの考えを作ろうとした
知的娯楽本として見て下さい

12歳でも気軽にサクッと読めて楽しめる
おもしろい哲学本を目指しています

◎以前出版した第1版を改良しました改訂版です
ミスや不正確さ、わかりにくさを改善し
さらに4章も書き足してページ数も増やしました。

◎Amazon KindleのKindle Unlimitedに登録されてる方は
そちらでなら無料で全部読めます

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1
こんな話を聞いたことありませんか

日本では虹は7色だけれど、
アメリカでは6色、ドイツでは5色

アメリカでは犬は「バウワウ」と鳴くけれど、
日本では「ワンワン」

僕はこれにすごく興味があったんですよ


同じものを見ているはずなのに、
なんで見ている人によって違って見えるんだろう?
ってことが不思議だったんです

そんなとき図書館で
フェルデナント・デ・ソシュールって人の書いた「一般言語学講義」に出会ったわけです


このソシュールって人なんですが、
スイス生まれの言語学者です

スイスは言葉に関して面白い国で
4つもの言葉がみんな使う言葉として定められているんですよね

ドイツ語・フランス語・イタリア語・ロマンシュ語だそうです

スイス語ってのはないらしいです

日本で言えば、
日本で中国語・韓国語・ベトナム語・ロシア語が話されてるようなものです

なので、聞いた話なので本当か知らないですけれど
スイスの子供たちは小さい時からいくつもの言葉を話すことができるらしいですよ


そんな国柄に、ソシュールの考えたことも影響されてるんじゃないかと
僕は思ってるんですが


とにかく、そのソシュールが言葉について考えたことなんですが、
まず大切なことが一つ

それは「言葉は物の名前を表すものじゃない」ってことです


普通日常生活の中では
「赤くて大体球状でヘタが生えてて、食べると酸っぱい時もあるけどおいしい果物」に
「リンゴ」って名前がついている、って考えるんですが
それは違うんじゃないか、とソシュールは言うんです

なんで?って思うでしょうけど、
そこがソシュールの面白いところです


言葉っていうのは、時代や地域によって変わるんです

例えば、身近な例で行くと、自身が会話してる相手のことを
関東では「あなた」というけれど
関西では「自分」と呼ぶんです


ほかには、
「紙をB5サイズくらいの長方形型に束ねて形を整え、
文字や挿絵が紙の上に印刷されているもの」を
日本語では「本」というんですが
英語では「ブック」、フランス語では「ヴィリーブ」
と呼びます


古文を読んだことのある人なら
「あまり好ましくないこと、よくないこと」を、
今は「わるい」と言うけれど
昔は「わろし」と言ってたことは知ってるでしょう


つまり、話す言葉が違うなら
たとえ同じものがあっても同じようにとらえられない


だからソシュールは、
言葉って実際に在るものを表すんじゃなくて
「言葉が持つイメージを表すんじゃないか」と考えたわけです


「赤くて大体球状でヘタが生えてて、食べると酸っぱい時もあるけどおいしい果物」に
「リンゴ」って名前がついている
のではなく
「リンゴ」という言葉と「赤くて大体球状でヘタが生えてて、食べると酸っぱい時もあるけどおいしい果物」というイメージがたまたまくっついてる


つまり「言葉」と「言葉が表すイメージ」の間に何の関連もないよ、
「赤くて大体球状でヘタが生えてて、食べると酸っぱい時もあるけどおいしい果物」
を「バナナ」と呼んでも全然問題ないよ、ってことです

これはソシュールの考えの一番基本の部分です

また、ここからソシュールはこんなことも考えだします

それが「言葉には区別しかない」という考えです

聞いただけだと???って感じですが、
実はこれ、ソシュールの考えたことの中でも
かなり重要・そしておもしろい考えだと僕は思っているのです


例えを出すと、
ドイツ語では、相手から物を借りることを「ミウン」、貸すことを「フォーミウン」と呼ぶけれど
フランス語では、借りることも貸すことも「ルイ」という

だから、ドイツ語では「貸す」と「借りる」が区別されているけれど
フランス語では、その2つは同じものだと考えるということです

つまり、ドイツ語では「貸す」と「借りる」という考え方があるけれど
フランス語ではそんな考え方がないということです


その言葉の中で、他のものから区別されることで初めてその考え方が生じるということです


難しく言うと
あることばの表すことは、
その言葉内での他の言葉との区別により生じ、
それがものや世界を規定する
ということです


例を挙げると
たまたま「リンゴ」という言葉が
「赤くて大体球状でヘタが生えてて、食べると酸っぱい時もあるけどおいしい果物」という
イメージを持っているから、
もし「リンゴ」という語がなくなったら
今僕たちがリンゴと呼んでいるものはナシの一種扱いされるかもしれません

リンゴとナシって似てますしね


犬と狼とは
「犬」という言葉と「狼」という言葉があるから区別されているのであり、
「狼」という言葉がなくなったら、(もしくは「狼」という言葉を知らない人からしたら)
今僕たちが「狼」と呼んでいる動物は、まとめて「犬」と呼ばれることでしょう


「リンゴ」と呼ばれる果物には
甘いリンゴと酸っぱいリンゴとがありますが、
今ここで僕たちがリンゴと呼ばれている果物を区別して
甘いリンゴを「蜜リンゴ」、酸っぱいリンゴを「酢リンゴ」と呼ぶことにしたら
従来までの「リンゴ」という考えは存在しなくなるでしょう


日本語では、色を表すことばがたくさんあるんです
だから、同じ虹を見ても他の言語を話す人に比べて
僕たちはより多くの色を区別して感じることができる
だから7つも色を感じ取ることができる

ってな感じです

2
ソシュールはほかにもいろいろなことを考えているのですが、
とりあえずここまでにします

興味がある人は読んでみてください
本当にいい本ですから

「一般言語学講義」そのものでもいいですし
丸山圭三郎さんという方がわかりやすい解説本を出されてます

最初は全然正しく読めなくても大丈夫だと思うんですよ
概要が何となくつかめればそれで大丈夫
僕だって、「一般言語学講義」の「音声学の原理」なんてところは
正直つまんなくて読んでないです

そういう試行錯誤や思い違いの繰り返しの果てに、
自分なりの解釈やら見解が生じて、新しくおもしろい考えが生まれてくるんですから


で、このソシュールって人は超有名人でしたので
たくさんの人が彼のこの考えを受け継いで
新たに自分の考えを作り出していったわけです


そんな中で、ジャック・ラカンっていう人がいます


ラカンも本当にいろいろなことを考え出した人なんですが
ここではその中でいくつかの考えだけに絞って取り扱っていきます

「大文字の他者」と「対象a」って考えです


難しい言葉ですけれど、かみ砕いて説明すると
大文字の他者っていうのは「ルール」のこと
対象aっていうのは「ルール内での望み」のことです


例えを挙げてみると
今の日本で「お金稼ぎたい」って人はたくさんいるんですよ
資本主義社会ですからね、お金あれば色々なことができるわけですよ
親友と旅行行ったり、おいしいものたべたり、家を建て替えたり  なんかして

いいですよね
僕もお金たくさん稼ぎたいです


でもですね、世の中には「お金」って考えがないところもあるんですよ
日本にも、かつてはそんな時代があったんです
縄文時代とか弥生時代とか

そういうところに住んでる人たちが「お金稼ぎたい」なんて考えるはずがないですよね
望みといえば「もっと良い弓矢が欲しい」とか「稲を保管できる倉庫が欲しいな」とかでしょうか


つまり、今の日本は資本主義社会だから
「お金で様々なものを買うことができる」というがルールが成り立っている、
そういう「大文字の他者」が成立しているんです

だから、資本主義社会に住んでいる人たちは
「お金を稼ぎたい」という、ルール内での望み「対象a」を持つんです


例えばもし資本主義社会が崩壊し、お金がただの紙切れになり
国がすべての人民に所得に関係なく、レジャ-や住宅や食事などを施す社会(「大文字の他者」)になったら
人々はお金というただの紙切れをもらうより、権力者に気に入られようとする望み(「対象a」)を持つでしょう

(まあ、そんな社会がうまくいくのかは疑問ですが)


これが「大文字の他者」と「対象a」です


「対象a」はルール内での望みであるので、
ルールの形である「大文字の他者」の影響を強く受けます

上にあげた例のように、
お金が存在する大文字の他者内と、お金が存在しない大文字の他者内とでは
例え同じ人でも対象aが異なる、つまり違う望みを持つということです


3
さて、ここまでソシュールとラカンの考えを簡単に見てきましたが
ここからが、二人の考えを基にして
僕が考えたことを述べていく箇所になります


まず、ソシュールなんですが
ソシュール自身は言葉についてたくさん考えを述べているんですが、
言葉を話す「人」について、ほとんど述べていないんですよね

まあ、当たり前といえば当たり前なんですけど
言語学者ですから

「言葉全体のまとまり」と「実際に人が話す言葉」を区別して、
「言葉全体のまとまり」の方のみを調べる対象とする、なんて言ってるわけですし

「ドイツ語」と「人が実際に話すドイツ語の会話」とでは
「ドイツ語」の方のみを、
「日本語」と「人が実際に書いた日本語の文学作品」とでは
「日本語」の方のみを、
それぞれ調べましょうよ、ってことですけど


それどころか、
人はただ言葉を押し付けられ、言葉を変える力を持たない存在とまで言ってますし
(細かく言うともっとあるのですけれど、あまり深くは入っていきません)

でも、ラカンは違うんです
ラカンはもともと精神分析家
つまり、「人の精神・心」について調べてる人なんです

だから、人のことにたくさん触れてるわけです

対象aなんてのも、「人が持つルール内での望み」のことですからね


なので、ソシュールをもっと「人寄り」にできないかな、
なんて試みをここでやってみるわけです


3-1

人とルール(大文字の他者)は、互いに望み(対象a)を通じて規定しあっている

先に言ってしまうと、
これがこの節でのメインテーマ・結論です


順番に見ていきましょう

僕が考えたことはこうです

言葉は、それを話す人がいるから存在していけるわけです
そしてソシュールは人を「言語に縛られて、それを変える力を持たない無力な存在」
ととったけれど、
でももしかしたら人にも意図をもって客体を変えることができるんじゃないの?
ってことです


ここについてはソシュールも言ってるんです
「言葉内での区別により、その言葉の意味が決まる」
つまり、前に言った「言語には区別しかない」というものですけれど

つまり、人が言葉の区別を作り出すことができれば
新しい考え方を「人工的に」作り出すことができるのではないか

こういうことです

そして
新しい考えを作り出す、ということは
新しい世界を作り出す、ということでもあるんですけれど


互いに異なる「犬」と「狼」ということばがあるから
互いに異なる「犬」と「狼」という考えが生じ、
「犬と狼とがいる世界」が僕たちの前には開かれるわけです

そして
もし「狼」ということばがなくなれば
今の「犬」と「狼」の考えは、すべて「犬」という考えにまとめられ
「犬しかいない世界」が現れるということです


新しいことばの区別を作りだすことができれば、
それに合わせた新しい考えが生じ、
新しい世界が生じる

つまり、新しい「大文字の他者」を作り出せるのではないか

で、このような、人が持つ力として
人が自らを言葉内(秩序内)で表現することによって、場合によっては言葉(秩序)の区分を作り変える力を新しく「個人性
言葉(秩序)に参加する力を新しく「集団性」と呼ぶことにしましょう


「犬」と「狼」という昔からの言葉の区別がある世界に、
人は集団性の力によりその世界になじむことで、
「犬」と「狼」とがいる世界が現れてくるんですが、
その中で人が「狼」という言葉を、意図をもって個人性の力によりその世界からなくすことができたら、
「犬」しかいない世界が現れてくるんです

ソシュール自身も、「人が言葉を作り出す力」を考えているんですけれど
それとは違います
というより、そのソシュールが考えたその力をさらに細かく分けたわけです

ソシュールが考えた、言葉を作り出す力はここでの「集団性」の方、
人が言葉に参加する力です

ソシュールは、人に言葉を変えることはできない
と考えていたわけですからね


ここでの個人性の力とは
「人が自らをルール内で表現する力、
そして場合によってはそのルールを作り変える力」です

集団性の力に、言葉やルールを作り変える力はなく、ただ参入するだけです

3-2
で、ここまで来たんですけれど、
なんというか、ごちゃごちゃしててわかりにくいんですよね

最初ってだいたいこんなもんだと思うんですけれど
前例のない、初めてのことですからね

今まで僕が考えてきたことを
もっとこう、シンプルに表現できないか
それを考えてた時にですね、「!!!」という感じで閃いたんです

僕は趣味で占星術を調べていたんですが
そのホロスコープっぽくすればわかりやすいんじゃないか、とね
つまり、こんな感じです

娯楽図1

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