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求めるな、さらば与えられん
今の気持ちをつらつらと。
メモ書きのようなものです。
ちょっとまた対人関係と言うか、自分について変化していたことが固まってきたので忘れないうちに書き留めます。公言することで自分を戒めます。
私が最近行い続けている信条(=信仰の箇条。また、堅く信じて守る事柄。)は大きく3つあります。
1つ目は詮索をしないこと
2つ目は相手に求めないこと
3つ目は自分を見捨てないこと
1つ目、2つ目については対人関係を指します。
私は昔かなりデリカシーが欠如した人間で、何でもバカなふりをして聞けば許されると思っていたため、人からしたら答えたくないことを平気で聞いたり発言したり。今思うと本当の意味で頭が悪いなと。
聞いても相手の判断に任せればいいし、それができないなら仕方のないことだ。そう思って相手に判断を求めていました。
大馬鹿な私がようやく”自分が人生の主役”ではないことに気が付いてから、大切にすべきはまず他者(他人は冷たいので言いたくない)だと考えるようになりました。
私の人生が回るのも他者がいてこそ。
ではその主役は私ではなく、そちら側なのだ。これは主導権と言っても良いかもしれない。
それからは、相手をまず大切にすること、どんな形であれ尊重しようと決めています。
言いなりになるだとか、イエスマンだとかそういう短絡的なことではなく、これはきっと当たり前のことなのですが。
相手に求めないことは詮索しないの内にも含まれますが、何かを頼んだとて相手がやらなかったり、ミスをしたり、思った風にならなかったとして、それはその相手を選び、説明や情報共有を怠った私のせいだ、という考え方に辿り着きました。
だから普段から必要以上に怒ることもないし、悲しむこともない。
心に余裕があり、相手を尊重することができるようになります。
もしその態度が原因(自分で何もかもやりすぎてタスクをやり忘れる、十分なことが出来ず)不意に嫌われてしまっても、相手に求めない、という同じ原理ですら求めないので、相手の”私を嫌いだ”という価値観も尊重していきたいと思い今実行しています。
なぜこんな態度なのか、原因などは考えないし聞かず詮索を避け、距離を空けて冷静になった時に、相手が考えを伝えてきた時には、余裕を持って受け止められる気持ちのみ、毎日大切に留めている。
(”私は悪くない前提”のような、やっぱりかなり偉そうなのですが、偉そうじゃない微妙なニュアンスで伝われば良いと思っています。)
そして最後の自分を見捨てないこと、です。
何か失敗したり、大損したり、誰かに助けてもらう形になった時。
最後の最後に残った自分は尊重してあげよう、と思っています。
家族・友人、ありがたいことに差し伸べてくれる手は一つじゃないかもしれないけれど、遠慮なく爪を立てて掴みかかったり、振り解く手も自分の手しかないと信じているので、その手を大切にしたいです。
私は今どこにいるのでしょうか。
自ら綺麗な景色を求めて深いトンネルに入ったと思ったら、あっという間に思っていた以上の景色が"トンネルの中に"ありました。
求めた先に宝があるとは限らない、やっぱり求めなければより良いものが与えられる。
神様は天邪鬼なので、そのくらいが良いです。
あと追加で、幼稚園のみでその後キリスト教徒ではないことだけ、ここに書き留めておきます。信教は特にないため、日本人であるためきっと仏教なんだと思います。わかりません。
歳を重ねてから出来た親友には、美しい洗礼名があり、少し羨ましく思います。
でもきっと私にも神様はいて、着地は決まっていても、その着地に行くまでの流れのピースについて、選択肢はこっちにあると信じてます。
私だけの神様には求めてもいいですよね。私のように人間の心はもうないから。
先述のセリフを言ったら、なんかエロゲのヒロインみたいって言われた。
闇落ち中島、冒頭走馬灯エロ。
最悪
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