ミルコ・クロコップと日本格闘技の分岐点

YouTubeを見ていると過去のPRIDE、K-1の試合がたくさん転がっています。これは人によって異なると思いますが、PRIDEの人気爆発の最大の功労者は誰かと聞かれたら私は間違いなくミルコ・クロコップと答えます。

理由は単純で最もPRIDEが認識された時期に一番応援された、感情移入させられた、また実力もあったからです。

ミルコが参戦したことでPRIDEは人気拡大し、逆にK-1はトップファイターの一人を失いました。

その分岐点は2001年になります。

2001年当時、ミルコはK-1ファイターの一人でした。

2001年のK-1GPは決勝トーナメントに進むために予選トーナメントを優勝しないといけないという今考えると王者になるために最低でも年間6試合、1DAYトーナメントを2つやらないといけないというとんでもなく過酷なシステムでした。

ミルコはメルボルン予選に参戦しました。

そのトーナメントは優勝候補がアーネスト・ホースト、対抗馬はミルコという図式のトーナメントでした。

しかし、ミルコは1回戦でマイケル・マクドナルドに1ラウンドでKO負けをしてしまいます。

しかもクリンチの際に油断してガードが下がったときにパンチをもらって負けたという内容も良くない試合でした。

グランプリの道が閉ざされたミルコは夏に藤田和之とMMAルールで対戦することになります。

そこでタックルに膝を合わせてKO勝ちしました。

その後K-1の敗者復活トーナメントにエントリーしましたが、9.11の同時多発テロの影響で参戦できなくなり、11月のPRIDEで高田延彦、大晦日に永田裕志と対戦し、MMA無敗で2001年を終えます。

結局2003年にボブ・サップを葬ってPRIDEに移籍、その後格闘技ブームのど真ん中で闘いました。

このミルコのMMA参戦については本当にいろんな偶然が重なっていると感じます。

まずメルボルンでマクドナルドに負けなければどうなっていたか?

多分ホーストには勝てなかったのでこのトーナメントは優勝できなかったと思います。

しかし、ここで1回戦で負けなければ藤田戦は別のファイターになってのではないかと思うのです。

このときのミルコはK-1の中でも当時のトップであるホーストやバンナに比べると一枚格落ちでしかも予選1回戦負けです。

K-1サイドとしては負けてもブランドが落ちないし、かつそれなりにやるかもしれない選手がミルコでした。

そして同時多発テロが起きていなければどうなっていたか?

まず福岡の敗者復活トーナメントでは予定ではレイ・セフォーと闘うことになっていました。

セフォーとミルコだと相性的にミルコが勝つのではないかと思います。

そして決勝はアダム・ワットですがこちらも戦えばミルコが勝つでしょう。

そうなるとミルコはK-1GP決勝に参戦していました。

ちなみにミルコ欠場で代役参戦したのはマーク・ハントです。

だから2001年にマーク・ハントが優勝したのは本当にいろんな偶然も実は重なっています。

この2001年の出来事がなければミルコがPRIDEに行くことはなかったのではないかと思うのです。

そうなれば2003年以降のPRIDEヘビー級は主役不在の階級となり、ミドル級のシウバ、吉田、桜庭あたりが主役になっていったのかもしれません。

逆にK-1では2003年ボンヤスキーの優勝も無いかもしれません。

そしてホーストが衰え、バンナが左腕を負傷した状態の当時のK-1でミルコがトップをとっていた可能性は高いと思います。

2003年のボンヤスキーだとミルコに勝てるか微妙なところでしょう。

おそらくK-1は2005年にセーム・シュルトが投入されて現実の歴史通りになると思いますが。。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?