2023年も何者にもなれなかった話

 2023年も何者にもなれなかった。何を成し遂げることもなく、ただぼんやりと日々を過ごしていたら2024年を迎えていた。そもそも何を成し遂げるつもりだったのかと問われると正直分からない。目標はなかった。それなのに時が過ぎるのを感じると、どこに潜んでいたのかと不思議に思う量の焦燥感に苛まれるのだ。
 暑過ぎた夏が終わって、カメムシが大量発生した後はすっかり寒くなった。年々秋は少なくなって今年は紅葉していたことにも気が付かなかった。そもそも紅葉を楽しみにしていたのかと問われると、本当に申し訳ないけれど全然興味がなかった。こうやって感動は死んでいくのだ。
 死んだのは感動だけじゃない。外交的だった私も同時に死んだようで悲しいほど内向的になった。泳ぐのをやめられないみたいに、ずっと動き続けないとダメみたいに生きていたのに、他人との関わりの中で四苦八苦しながら、それでも楽しんでいたのに、すっかり人に会わなくなった。いつでも一人、暗い部屋にいる。ちなみに部屋が暗いのは横着して電気を点けていないだけで、一人でいるのは嫌いじゃない。内向的になったとマイナスな論調で書いたが、悪いことだけではなかった。まず第一に無理をしないようになった。一人でできる無理は少ない。無理をしないようになると余裕が生まれるので、今までたいして向き合ってこなかった痛みに向き合えるようになった。これがまた私にとって大きなプラスとなった。どんな痛みであっても大したことないで終わらせず、キチンと向き合うことで早く治るのだ。もう何十年も生きているのに、ようやくこんな根本的なことに気がつくのだから生きるのは本当に難しいと思う。
 ああ寒い。痛みに向き合えるようになったのに、冬の室内を適温に出来ない。そもそも大阪はそんなに寒くないし、部屋にろくな暖房機器がない。エアコンとホットカーペットしかない。エアコンは顔だけほかほかするし、ホットカーペットは部屋中を温められないので、結果寒い。でも死ぬほど寒いわけでもないので、寒い寒いとぼやくだけである。冬は嫌い。春は空気がベタベタするし、虫がウキウキし始めるから嫌い。夏は暑過ぎて嫌いやし、秋に関しては存在を感じないのでコメントしようがない。つまり全部嫌い。これが本物の文句垂れってこと。2024年もこの調子で文句を垂れていきたい所存である。
 文句を垂れるだけの何者でもない私を責めるのは実際のところ自分自身である。何者かにならなければいけないなんて、よく考えたら誰にも言われていない。私が勝手に言い出しただけである。結局、この世にある大体の地獄は自分が生み出しているのだ。何かを成し遂げないといけないと言い出したのは私で、その結果焦燥感に駆られているのも私である。ちゃんちゃらおかしい話なのだが、私の世界にいるのは私だけなので仕方がない気もする。私が作り出した世界で、私の作り出したルールに従えないのは私自身である。そしてそれを断罪するのも私で、償うのも私自身である。
 孤独な私の感動は本当に死んでしまったのだろうか。私の感動は死んでしまったなんて簡単にくくってしまっていいのだろうか。何者にもなれなくていいから、死んでしまった感動を取り戻したい。雨上がりの街で、知らない人の家の軒先に飾られた花を濡らす雨粒が夕暮れに照らされてきらりとひかる瞬間に、心動かされるとか、そんな崇高な感じじゃなくていいので。もっとささやかな感動でいいから。ほら、わかんないけど、なんか、ささやかな感じの何か。ちょっと具体的に言うてほしいと言われてもすぐに出てこないけど。うんうん、まあ大丈夫。私の感動は、不死鳥みたいに何度でも蘇る気がするのだ。当たり前のように日が沈んで、また登るみたいに。突然、死んでしまう人がいるみたいに、私の感動も当たり前みたいな顔をして蘇るのだろう。
 今年もきっと何者にもなれないまま終わる。やりたいことリストも、結局何も浮かばないままだし一年後も部屋が寒いと文句を垂れているはずだ。でもそれでいいのだ。そんな自分を許せるのも、私だけなのだから大きい気持ちで、感動を探そうと思う。 



 
 

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