Hunde die bellen beißen nicht : Prequel
死んだ後の感覚というのは曖昧なもので、それはまるでまどろみの中にいるようなふわふわした感覚に似ている。綿菓子の中に身体を埋めるような心地よさ。もう少しで意識を手放せる。ああ、眠いなあ。このまま眠れたら幸せだなあ。と思っていたらふと君の顔が浮かんだ。それを思い出してしまえば眠りになどつけなくなる。綿菓子の中で君の写真を取り出してしまうと、睡眠欲よりも胸のほうが傷んだ。そういえばお別れをしていない、とそう思った瞬間。
気がつけば、ぼくは地上に降り立っていた。
ぼくは一度、幽霊に似た何かになったことがある。居ても居ないような存在になって、息をしているかどうかも怪しいということも、そういえばあった。その時に比べると、まあぼくは幽霊なんだからそりゃ誰もぼくを見ないよな、という感じで、なんだか変な気分だった。全然悲しくない。だってぼくは幽霊なのだから。もちろん、降り立った街にはぼくの姿など映らない。身につけているものを見ると、服はいつもの白衣をまとっているようだったけど、口元にはいつものマスクはないようだった。ぼくは死んでからはじめて、マスク無しで街を歩いている。いや、歩いているという感覚は正しくないか、目線の高さは一緒だけれど、ふわふわと浮いているという感じか。前に進もうと思えば進める。どこにだって行ける。
——そうだ、君の元へだって。
そう思い立って気がつくと、ぼくは研究所の一室に立っていた。知らぬ間に移動しているのか、それとも意識集合体がそこに発現しているのかは良くわからない。よくわからないけれど、確かにここは「エマヌエル・ユルゲンスが存在しない新伍研究所」だった。自分の姿は誰の瞳にも映らない。
廊下を通りすがった中村に声をかけたけど、ぼくの姿は見えないようだった。その次にあの日行動を共にしたフカマチとカイハマの姿もあったけれど、やはり気がつくこと無く通り過ぎる。やはりぼくは、確かに死んだのだ。ふわふわのわたあめのなかに、ドロドロとしたものが流れ込む感覚がある。ああ。なんでここに来てしまったのだろう。死んでからはじめて後悔を覚えていた。
きっとこの調子だと、多分ベネにさえぼくの姿は映らない。もう誰一人としてぼくのことを捉える人は居ない。それは、確信に近い何かだった。でも、もしかしたら、とは思う。ここに来たからにはひと目合って何かを言っておきたいという気持ちがあった。だってぼくがここに来れたということは、きっとそういうことだ。ひと目見るだけでもいい。
人生の後悔は本当に全然ないけれど、敢えて言うなら、君のことが心残りだったから。
ぼくは、ぼくが居たデスクに座ってぼうっとベネが来るのを待った。待ちながら、もしかしたらベネはこの研究所を出ているのかもしれないということを過ぎった。自惚れだけど、彼はぼくのことがとても好きだったから、ぼくが居たこの研究所に居ることは辛いことだろうと思う。ぼくが逆の立場だったら——と、考えてやめた。どうせ机上の空論だ。
静かな時間がいくつか過ぎたあと、ガヤガヤと何人もの声が廊下側から聞こえてきた。静かになっていたのは会議室に殆どの研究員が集まっていたからだったのだろう。何かのミーティングだったのかな? ぞろぞろと流れる人々の中には見知った顔は少なかった。やっぱりもう、ベネディクトはここに居ないのかもしれない。どこかにベネを探しに行こうかなあ、でもどこへ。と、目をそらそうとした瞬間、見慣れた悪夢味のわたあめみたいな色の頭が通り過ぎる。
ベネディクト。
思わず立ち上がって駆け寄ろうとした。けれど、ぼくにはそれができなかった。
ベネディクトは白衣を着ていた。彼はこの研究所のアシスタントだから白衣は着ないはずなのに。しかもその白衣は、新しく入所した割にはくたくたで、胸ポケットの端が錆で汚れている。それが自身が生前着ていた白衣だということに気付き、思わず言葉を失った。なんでベネディクトがそんなものを着ているの、なんてそんなの聞かなくてもわかる。もちろん、ぼくのせいだ。ぼくが死んでしまったからだ。
彼は、研究者には似つかわしくない頭脳を持っている。研究室なんて小さな箱に収まるような人間じゃないだろう。いや、研究者としても色々できることは多いかもしれない。でも、君は逃げ出してもよかったんだ。どこにだって行けたはずだ。でもベネはここに居る。恐らくはぼくのせいで。ああ、自惚れだと笑えばいい、でもぼくにはわかるんだ。彼はぼくの影を探している。
ああ、ベネディクト。思わず言葉が漏れて、研究室に入ってきた彼の元へ歩みを進める。
ベネ。
ベネディクト。
ぼくは——。
「——え、」
風船が弾けたみたいな音がして声の方に翻すと、ばちり、と双眼が合う。それはベネディクトの緑色の瞳ではない。研究室に入ってきた、顔のよく知る目つきの悪い男。こいつとの関係をなんと形容すればいいのか—−同僚、っていってもみんな同僚だから、友人とでも呼べばいいのだろうか——ともかく、ぼくはアリスガワと明らかに視線を交わしている。
アリスは一瞬目を見開いて、それから首をブンブンと横に振る。それでもその姿は消えないらしく、まじまじとぼくの顔を覗き込むように見えた。俄には信じられないだろう、死んだ男がそこに立っているのだから。
ぼくはやあ、と彼に対して生きていた時には出せなかったであろう、世界で一番穏やかな声で挨拶をした。
「元気?」
肩を竦めて付け加えると、アリスは一度何かを言いかけてはあ、とため息を吐く。今にも怒り出しそうな雰囲気もは生前もなんだか貫禄があってビビりまくっていたっけ。ぼくは怒る人を相手にするのが苦手なもので、こういう風になるアリスに、なんて声をかければいいかわからなかったものだ。アリスは戸惑ってはいるものの、ぼくの姿を真っ直ぐに捉える。
「ねえアリスは、ぼくのことが見えるんでしょ」
「……」
「おい無視すんなって」
こぶしを振るうが、それは空を切る。幽霊なんだから当たり前か、何度やっても振り上げた拳はアリスガワの体内にすう、と溶けて消えてしまう。くそはがゆくて仕方がない。こんなに細くて弱っちいのに手が出せないなんて!
アリスは黙ってぼくの姿をじっと見つめた後、何も言わずに部屋を出てしまった。あれは絶対ぼくの姿は見えていた。居ても立ってもいられなくて、アリスの後を追う。研究室を出たときベネの様子を伺ったけれど、やっぱりぼくのことは見えないようで、こちらに一瞥することもなく、虚ろな瞳で書類に目を通していた。
***
奇妙なラジオに出演したことがある。夢の中の話だけれど。そこには同僚であるアリスガワが居て、「コノワタ」という人権団体の代表で、新伍研究所にとって要注意人物とされる人や、その団体の人間である「ヤオチ」という人間も同席していた。彼らは皆、同じ境遇でラジオに強制的に出演していたようだった。
番組名は「ミッドナイトラヴァーズ」。よくわからない姿をしたDJがぼくらを置いてけぼりにしながら強引に番組を続けていた。真夜中の恋人たち、という番組名に相応しく、ぼくらはそれぞれの恋人の話をした。恋人、という定義でいえばぼくにとってそれは「ベネディクト・ゲープハルト」であり、気恥ずかしいことこの上なかったが自然の流れで彼の話をすることとなる。後で気がついたのだが、それはベネディクトに——各々の自分の相手にも伝わっていたらしい。もちろんアリスの相手である蒲田さんにもだ。ぼくらのことは別に秘密にしていたことではないから、知らないことのほうが少ないかもしれないけれど、でも改めて話をするのは、なんだか変な感じだった。だってそもそもぼくは恋の話なんてしたこともないし、まず人に話をしたり説明したりすることがとても苦手なので全く気は進まなかったけれど、色んな質問に答えたり、悩み相談を解決したり(解決したかどうかはわからないけど)して、なんだかんだでスムーズに進行されていた。ぼくはその全てに、正直に答えた。正直に答えることで、もしかしたらベネを傷つけるかもしれないってわかっていながら。
「もしも世界と大切な人を天秤にかけたとき、君が選ぶのは果たしてどっちだい?」
ラジオの夢から覚めた時、景品としてランチクルーズのチケットを握りしめていた。その裏にかかれていた文言を、ぼくは口に出して肌を寄せ合いながらベネディクト問いかける。色んな問題を出されたけれど、あまりに飛躍的な内容のそれを、見てぼくらは思わず笑ってしまった。
「ベネはぼくを選ぶでしょ」
チケットを二人で覗き込みながらぼくがそういうと、ベネは少し苦い顔をした。
「え、選ばないの?」
「……世界とエマのどちらかを選ぶってことだろ」
ぼくの問いには答えず、そうだなあとベネはじっと紙を見つめている。即答しないところが、本当にベネらしい。そうだよなあ、状況によるかなあ。と思い直してぼくも考える。もし、世界とベネが天秤にかけられたとして……うーん、ぼくとベネのどちらか、だったら簡単な話なんだけどなあ。
「もちろん世界も大切だし、エマも大切だし……うーんでもどちらかを選ばないとしたら……これって世界が危機に晒されていたとして、どちらか選ばなきゃいけないって状況なのかな」
「どうなんだろうね。全然わかんないけど……」
ベネは相変わらず紙を見つめてうんうん唸っている。ぼくも、自分も傷つけない最適な言葉を探しているようだ。
もしそういう状況になったとして。世界が危機に曝されたとして。これは世界を滅ぼしてでもベネを助けたいかという話だろ? 世界滅亡なんてノストラダムスじゃないんだから、そんなことはあり得ないけれど。でもベネには生きてて欲しいなとは思うんだよ。優秀だし、何でもできるし。彼が生き残っていれば人類の存続への大きな貢献になることは間違いない。
「まあ、君は生き残ってもいいけど、ぼくはべつに生き残らなくてもいいからなあ」
ぼそりと独り言を呟いたら、ベネはちょっとさびしい顔をした。そういう顔をさせるって分かってて口を開いたけれど、少し心臓がずきりとした。もしかするときっとラジオのときも、こういう顔をしていたのかもしれない。困らせたくはないけれど、あまり表情の変わらないベネがいろんな顔をするのを見るのは、正直すごく楽しいところがある。……とか言ったらベネは怒るかな。怒らないとは思うけど。
ベネの言葉を待ってしばらくすると、ふと息を漏らすように彼は続けた。
「……でも俺はエマにも生き残ってほしいんだよなあ。でも世界がなくなってエマを選んだとしても、そこに居るのはエマひとりだろう? エマを寂しい思いにさせたくないし……」
——この優しさが。ぼくは愛おしい。本当はきっと、何を投げ打ってでもそうしたいという感情があるのに、理性的な彼は誰もが幸福な道を探求し続ける。欲望に従ってひとつを取ることは簡単だけれど、彼はそうはしない。それは優しさであると同時に厳しい道でもあるだろう。利己的なぼくとはまるで真逆のその優しさが。
「ベネが居なかったら、ぼくはいいや」
「でも……エマを……ううん……」
「いいよ」
この優しさが、ぼくの心を満たしてくれる。熱いか冷たいかのどちらかだった感情を、ちょうどいいところでとどめてくれる彼の優しさが、ぼくは愛しい。大切にしたいんだ。これから先、ずっと。
「一緒に死のうよ、そんときは」
するりと抜けて出た言葉に、その選択肢があるなら、とベネディクトはようやくやっと微笑んだ。
***
「なんだよ、ベネを連れ去りに来たのか」
研究所を裏口から抜けて2、3台しか停まっていないがらんとした駐車場にたどり着くと、そこでようやくアリスが口を開いた。内容こそ穏やかじゃないが、まるでぼくが生きていた頃と変わらない口調だった。ぼくもしかしてまだ生きてるんじゃないか?って錯覚するくらいには、とても穏やかだ。まあ、やっぱりぼくは死んでるというのは、変わらないのだけれど。
アリスがぼくを見る瞳の色は、いつもと変わらない。幽霊を見て怯えるようなタマにも見えないし、そういや夢の中でラジオをしていたとき、急に現れた電話やコップの中に入ってた無くなると溢れ出すお茶を見ても、アリスは同じような感じだったっけ。ぼくもまあ、オカルト現象の研究者の端くれではあるから別段驚きはしなかったけど、それにしてもぼくが彼を知ったときからずっと変わらない。どちらかというと、明確に変わったのはぼくの方だ。
「違う。ぼくはそんなことしない」
アリスの眉間のシワが深くなる。
「じゃあ何しに? 俺と話をしに来たわけじゃないだろ」
「当たり前だろ。そんなこと、例え死んでもあり得ない」
じゃあ何しにここに来たのか。無意識にこの場所に居た理由。そんなの決まってるじゃないか。
「……ベネに会いたかったんだ」
彼のことが気がかりだから。アリスが不思議そうな顔をした。
「会えるじゃねえか、今すぐ」
アリスは親指を扉の方に向けた。ぼくは首を横に振る。
「残念だけど、向こうはぼくのこと見えないよ。ぼくだけじゃなくて、みんな。アリス以外」
ふうん? と納得してないような声を出したあと、アリスはドアの方に向かって比較的大きな声を上げる。
「おーいベネディクトー。エマが呼んでるぞー」
「は!?」
アリスは何度もベネの名前を呼んだ。ここからは
「やめろってばー! なんでそんなことするの!」
「どうせ見えないんだろ」
「……そう、だけど。そうじゃない、だろ!」
お前そんな冗談とかするタイプだったっけ? いや、ぼくのジェンガを抜く時にガヤで邪魔してきたりとか、水鉄砲大会のときにぼくの後ろをちょこまかと隠れて邪魔してきたりとかは良くあったけどさあ。ただの意地悪だと思ってたけど、俗にいえばあれは冗談という類のやつだったのか。なんだこいつ分かりにくすぎだろ。
ぼくがジタバタとアリスの前を横切ったり手を降ったりして意味のない阻害を繰り返していると、ベネもこちらに来ないこともあってかおもしろくないように舌打ちをした。その後自分で頭を掻きむしってあーあ、と大きな声をあげる。
「もーなんなんだよお前。なんで俺なんだよ」
「……アリスが一番びっくりしないからだよ」
「なんだよそれ」
きっとアリスなら、そうできるって神様が選んだんだ。ぼくだって本当かどうかなんて知らない。なんでアリスなんだよ。なんでベネじゃないの。神様はいつだって意地悪だ。蒲田さんならまだよかっ……いや良くないか。ベネがよかった。ベネと話したかったのに。なんで。
なんでぼくはここに居るの。はじめて泣きそうになった。幽霊というものが果たして正しく涙を流せるのかは分からないが、鼻の奥はつんと痛い。
ぼくはようやく、自分が死んだということを身をもって痛感した。誰の目に触れられなくても構わないんだ。そうやって生きてきたから。でもベネはぼくを見つけてくれたんだ。幽霊みたいだったぼくを、見つけてくれた。だから死んだって見つけてくれると思ってた。そう願わずにはいられなかった。自分の魂が、グラグラと歪んでいくのがわかる。どうして死んでからこの場所に立っているのだろう。ベネにはぼくの姿が見えないというのに。
「……そういやお前、そんな顔してたんだな」
「へ?」
アリスが素っ頓狂なことを言うものだから、ぼくの口から素っ頓狂な声が出る。口元を手で抑えて、ああ、と納得した。そうだった、ぼくは今マスクを外しているんだった。ベネ以外にこの姿を見せるのは、小さい頃以来のことだった。だってみんなこの痣を見ると硬直しちゃうから。びっくりさせないように、ぼくは秘密をひた隠しにしていた。アリスはびっくりしていないようだったけど、どうなんだろう。
「びっくりした?」
「それなりに」
「へえ。アリスも人の心があったんだね」
思わず口元が緩むと、アリスはとっても嫌そうな顔をした。
「……お前、死んだ時の方が口回ってねえか」
「マスクが外れたからだよ」
だってアリス以外の人に見えていないなら、痣を隠すマスクも必要ない。本当のことを話しても傷つく人が居ないなら、口を閉じる必要もない。アリスが傷ついたって傷つかなくたって、ぼくはどうでもいい。これは一種の信頼だといったらこいつはきっと罵倒するだろうから、言わないけれど。
アリスはいつもみたいに、そーかよ、とつまらなそうに答えた。
***
ぼくには神様が居た。しかも3人。ぼくに愛を与えてくれた祖母、ぼくに道を教えてくれた恩師、それから——ぼくの持たないものを持っている人。今思えばバカみたいな話だ、祖母や先生は神様だとしても、彼は神様ではない。あんな人間くさい人、前の二人と比べれば神様には程遠い。けれど。彼はこんなぼくを見てくれたのだ。触ることを許してくれた。生まれてきてすぐにこの罪深い痣を持つぼくにも、許されることがあったのだと。ぼくは意味もなく許された気になっていた。彼は神様なのだろうと思った。結局全然、そんなことはなかったけれど。ぼくが彼を盲目的に信仰していた頃は、あの人の何もかもが眩しく見えた。——神様にだって、みえたのだ。
一度だけ、彼に本当に神様になってほしかった事があって、彼を触媒に神を呼び寄せようとしたことがある。その時研究していた「ミサ・ジ・レクイエム・ペル・シュジャイ」に関連するクリーチャーだったらしいが、ぼくはそこら辺の記憶が曖昧だ。頭の中で、恥ずかしい話だが、ずっと彼を憎んでいたんだ。恨んで、恨んで、そうして別の誰かから神を喚ぶことを強要され、しかしその酷く醜い神に吐き気を覚えたぼくは、人間になった神様を外見だけは綺麗にしたいということだけ、それだけは鮮明に覚えている。
アリスが、ベネが、こちらに来たばかりのヌゥがぼくを止めようとしてくれたから、全ては未遂に終わったのだけれど、もし誰も気づかず、彼らを、殺していたらと思うと。ぞっとする話だ。
ぼくがしてしまった行為自体は、精神鑑定の結果「外部からの洗脳」ということに落ち着いて然程懲罰を受けずに済んだ。同じ時殺人事件があって、それで犯人になりかけたけれど、新伍研究所の圧もあってその時からめっきりニュースで取り上げられなくなったこともあって、改めて恐ろしい研究所に入ってしまったのだと思った。
でもやっぱりぼくが起こしたことだったので始末書は提出しなくちゃいけなくて。しかもそれを提出する相手というのは、そりゃやっぱり代表の蒲田さんになるわけで。申し訳無さが天井を突き破る思いで蒲田さんに面と向かって謝ったが、彼は特に何も言うことはなく、むしろ未だぼくに怯えているようだった。
許されるとは思ってない。蒲田さんには少しずつ罪を償っていかないといけない。だってぼくはそれだけのことをした。一生ここで働いてやろうと思った。仕事もたくさんこなした。けれどどこか清々しい気持ちだった。彼を人間だと認めてから、ぼくは神様に縋りながら生きることを、やめた。
「俺は、一緒に、捜しに行きたいんだよ」
先の見えない道の先。隣に居るのは、きみだけだった。
***
燃えるようなオレンジ色の光が、あの絶望の日を思い出す。何もかもが投げ出したくなって、何もかもを終わらせたくなったあの日。神様が居なくなるなら作ればいいと、そう思ってしまったあの日のことを。ちょうどこんな感じの夕暮れだ。ぼくの髪の色と一緒。
何をするわけでもなかった。一度ちゃんとベネに声をかけてみたけれど、ベネの双眸がぼくを捉えてくれないのはあまりに辛すぎた。アリスが冷たい表情でぼくの様子を見ていた。胸が張り裂けそうで、ここではないどこかへ逃げ出したい気持ちにもなった。でも彼の息吹を感じることはしたくて、デスクの窓からベネのことを見ている。
ベネは少し痩せていた。多分きっとぼくのせい。食事もろくに食べていないのだろうし、眠れてないのだろう、今だって目にクマができている。心配だ。消えて無くなりそうだ。そう思う気持ちとは裏腹に、白衣を着たベネディクトはとてもかっこよく見える。憂いを帯びた表情も、虚ろな瞳も、なんだか違う人みたいだと思うくらいに。罰当たりだけど、とっても綺麗だとそう思った。こんな表情ぼくが生きてた頃にしてほしかった。そうしたらもっと好きになっていたのに。
なんてことも、伝えられないまま夕方になっていた。各々の仕事が一旦片付いて帰る人は帰っていく、見慣れた光景だ。ベネはまだ、帰らないようだった。
ぼく一体は何をしているんだろう。このまま呪縛霊にでもなるつもりなのか。うーんべつにそれでもいいかも。ぼくは天国より、地獄より、この場所でふわふわしてたほうがお似合いな気がする。でもどうにかしてベネに何かを伝えたい気持ちが強い。その気持ちだけでぼくはこの場所に居られているような気がする。でもぼくのことが見えるのは、アリスだけ。
アリスに協力を頼んだところで、あいつは嫌だというだろう。何でそんなことしないといけねえのって。仕事じゃないなら無理とか言う。絶対言う。言われてないのになんだか腹が立ってきた。ぼくが浴びせられても居ない罵倒に憤慨していると、ちょうどそのアリスがひょっこり、窓の外から顔を覗かせた。ばっちり目があって何をするのかと思えば、しばらくするとわざわざ外から回ってぼくのところまで来てくれた。
「なんだよ、まだ消えてねえの」
ぼくのことチラチラ見てたくせに、わかりきったこと言ってる。ぼくがこくりと頷くと、アリスは鼻で笑った。
「暇な奴だな」
「ほんとそうなんだよね。死んだらやることない」
「勝手に死んで、勝手に出てきて。やることないってお前。生きてた頃もだったけどほんっと頭空っぽだよなあ」
「うるさいなあ」
「ベネに何か言うんじゃないのかよ」
「……そりゃあ。言いたいことは、いっぱいあるよ」
でも伝えられないんじゃどうしようもないじゃない。毎日枕元に立ってやろうかと思うけれど、それでもなんか意味なさそうだし。奇跡でも起きない限り、無理な話だ。
「あーあ。アリスが手伝ってくれたらなあ」
「……嫌だとは言ってねえだろ」
「え」
「ベネになんか言葉を伝えるだけなんだろ。別に伝えるだけだったら……」
「えっえっ。どうしたのアリス……熱でもあるの?」
「ねえよ! うるっせえなあ」
アリスでもぼくのことを可哀想とでも思ったのか。未だ成仏できない幽霊のぼくを。そりゃあそうだ、ぼくは生まれてすぐに母から捨てられて、父に拾われて幽霊みたいに扱われて、挙句の果てに24歳で死んで。ぼくは可哀想だろう。可哀想のしわ寄せがここに来てるんだろう。だからこれが、最後の我儘なんだってわかってる、アリスにだってわかるくらいなのだから。
「正直に言うと、後悔はないんだ。でも、ベネのことが気がかりだった。元気に過ごしてくれればいいんだって、そう思った」
ひと目姿を見れればいいと思った。でも今の彼を見て、何か言葉をかけないといけないと思った。
でも。
「……何を伝えよう」
「はあ?」
めちゃくちゃアリスが呆れた顔をした。
「だってぼくそもそも人に何かを伝えるなんて柄じゃないし……ていうかベネに伝えるって、最後だし……どうしよう」
「知るか!」
伝えたい思いはたくさんあるのに、全然思い浮かばない。言葉はいっぱいあるのに、全部は伝えきれない。言葉にすることを怠けていたことが、こんなところで弊害になるなんて。溢れ出す気持ちとは裏腹に、ぼくの口は頑なになっていく。アリスはじっとこちらの様子を伺っている。ぼくの言葉を待っている。
「……明日! 明日には言うから」
ちゃんと考えるから少し待って欲しいという意味合いで言ったけれど、アリスは何も答えてくれない。だって、死んだぼくに明日なんてない。そんなこと、アリスにだって分かる。この残留思念がいつ消えるかなんてわからない。でもそれは、いつかのぼくがそうだったように、アリスの方だって、ベネディクトだってそうじゃないか。
「なんだよ、ぼくが消えるとでも?」
「消えない保証はないだろ」
「大丈夫だよ、よくわかんないけどまだここに居れる気がする」
「本当だな?」
「なんだよ、寂しいの?」
アリスの瞳が揺らいだ、気がした。ぼくの気の所為だということにしておこう。アリスは踵を返して研究所の方へ歩き出した。
「うるせーな。居るんだったらいいんだよ」
「うん。また、明日ね」
ああ、とこちらを見ずに返事をして、アリスは研究所に消えた。また明日。明日になったらちゃんと消えるから。寂しい思いをさせてごめん。ぼくが死んだせいで。
辺りは夕闇につつまれる。ぼくと同じ色の太陽は、また登るだろう。ああ神様、その時までには、きちんと終わらせるから。だからどうかぼくの我儘を許して。ぼくの声に答えるように、一陣の風が吹いて木がゆらめく。もうすぐ秋になるというのに、冷たい夜風を感じることは今のぼくにはできなかった。
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