残香
新伍研究所には社宅がある。
それは身元もあまりはっきりしていない外国人とか、流れ着いてきてしまった研究員とか、そういう人たちを匿うためなだとか言われているが、本当のところは良くわからない。もともと人の出入りが多い場所だ、今からアパートを探して契約をしてものを買い揃える、っていうのも確かにいちいちしていたらきりもなくなってしまうから合理的といえばそうなのかもしれない。ただ、社宅は一度燃えてしまったものだから、前の場所より少し距離が出てきてしまったのだけれど。それはそれでデスクワークの多い仕事だから、助かっているといえばそうなんだけれど。とにかく俺も就労ビザで日本に来ている身で、右も左もわからない日本でイチから買い物をするのは願い下げではあったから、つまり社宅に住むことに不満足はない。
「ねえベネ。今日はなにが食べたい?」
日が落ちるのが遅くなった夕暮れの道を、同じ外国人の——しかも同じドイツ語圏の——エマヌエルと並んで歩く。いつも昼はカップラーメンとかで済ませるくせに夜ご飯はきちんとつくるという彼のおこぼれを良く貰っていた。自分は驚くほど料理ができなくて、それを不憫に思ったのかある日から晩御飯に招かれることが多くなった。彼はその大きな身体の割に動きは機敏で、手先も器用だった。一人暮らしが長いから、って料理も上手に作れる。ただ、洗濯物だけが苦手だった。いつも少し生乾きの匂いに混じってタバコの香りがする。喫煙者も男の一人暮らしも多い職場だから、そこまで不快には思わなかった。
「エマが作ってくれるんだったら、なんでもいいよ」
「それが一番困るんだよなあ〜。せめて洋食とか日本食とかくらいのカテゴリーは決めてよ」
日本食、練習中であんまり得意じゃないけど。顔を半分覆った黒いマスクの大男は眉を八の字に垂らす。
「じゃあ、パスタでも」
「うん。じゃあパスタね。トマト缶があるからそれを使おうかな」
指を頬に当てながら上をむいて歩いている。冷蔵庫の中身を思い出しているらしい。そうやって歩いて20分の間に彼の中で献立は決まっていて、部屋に着く頃には「じゃあ作ったら連絡するから」と自分の部屋に戻っていこうとした。
「手伝おうか?」
何もできないのはわかっているけれど、これじゃまるで召使みたいだと、なんとなく申し訳ないような気がして自然にその言葉が出ていた。エマは部屋に戻ろうとドアに手をかけたままこちらを向いて、また、眉を八の字に垂らして困ったように笑った。
「いいよ。僕が作るから」
だからベネは見ておくだけでいいんだよ。
本当に見ておくだけでよかったのだろうか、と独りぼっちの部屋でそう思う。
例えば風邪を引いたときとか、おかゆの作り方くらいは教えてもらえばよかったと思った。食生活がボロボロなのはなんとなくわかっていた。でも作る気も起きなければ、食べるきすら起きないものだから、みるみるうちに体重は減っていく。こんな姿、エマが喜ぶわけがないでしょう、と誰かから言われた気がするが、そんなのお前にわかるのか、と泣き叫びたくなった。エマはもう居ないんだ、喜んだり、悲しんだりするものか。あいつはもう死んだんだ。
そしてとうとう、無理に無理がたたって風邪を引いた。年末年始は特に無理をした。無理をした自覚もないくらいに働き詰めだったと思う。ふ、と気を抜いた瞬間に高熱が出た。
ゼンに連絡を取って布団に潜り込む。病院に行くことすらだるくて、少し眠ろうと目を閉じる。朦朧とした意識の中で、やわらかい太陽みたいな声がした。最初は夢かと思った。夢の中すら出てきてくれない君が、やっと出てきてくれたと思った。
のに。
「ベネ、大丈夫?」
——違う。
「エマだよ」
——お前は誰だ。
「僕はただ君のことが心配で」
——止めてくれ。
「恥ずかしいからやめて」
——触らないで。
「起きたら、ちゃんと治ってるから」
優しい声だった。偽物だと決定的にわかっているのに、外側も、声も全部エマで、服から香る部屋干しの匂いとか、髪から伝わるタバコの匂いとか。嗅覚は記憶を呼び覚ますとは良く言ったものだ。目を閉じると本当にここに、エマがいる気さえする。
でも、エマは死んだんだ。もうもう二度と会えないのだから、思い出させないでくれよ。会いたくなるだろう、会えないのに。こんなの拷問だ。俺が、彼が、何をしたっていうんだ。
良くわからない食べ物を食べさせられ、外に出ようとしたら引き止められ、そうして今、ベッドに寝かしつけられている。よくわからないゼリーのようなものや、暗黒物体のおかげなのか熱はおそらく下がっている。そいつは俺に眠れ、とそう言ってくる。眠らないとどうやら帰らないらしいので、俺は仕方なく、良くわからないその人物に従ってベッドに潜り込んだ。
意識が沈む前に、鼻歌が聞こえた。エマは鼻歌なんて歌わなかった。けれど果たしてそうだっただろうか。誰が鼻歌歌っていたんだっけ。あれ、あのときのパスタの味はどうだったっけ。エマヌエルは、どこにいるんだっけ。
エマ、エマ。
「おやすみ、ベネ」
次に目を開けたとき、熱は下がっていた。誰の気配もない暗い部屋で、あのよくわからない生き物の残骸だけが残る。エマの匂いがする。もう体調は良いはずなのに、酷く吐き気がした。
20180316
せさみ
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