砂糖味の珈琲

皆方探偵事務所の朝は早い。
いや、早いのは所長が早く来るからであって本来事務所はそんな朝早くから開いているわけではないんだけれど。病院に勤めてた頃の癖が抜けなくておれも早めに出勤するが、それよりも所長の朝は早い。扉を開けると必ず何かしらの飲み物の匂いがする。今日はコーヒーの香りだった。おはようございます、と言うと、南方先生は少しだけぼうっとしたあとでこちらに気づいて、おはようと返してくれる。おれデスクに着くと今日は依頼人の要望で早めに出るから、とおれに伝えてきた。後から来るであろう明松くん淪くんに伝言しろ、ということだろう。つまりは早めにここを出る。まあいつも関係なく早いんだけど。
おれが注いだ二杯目のコーヒーを飲み終わる頃、南方先生が事務所から出ていった。雑務をしていると入れ替わりに淪くんと明松くんが順番に出勤してきた。淪くん辺りはまだ眠たげな目を擦って、各々事務作業のために机に向かっていた。明松くんは机に座りたくないのか、どこからか取り出したハタキでホコリの出ない本棚を叩いて回っていた。
「そういえばさあ、久那さんってなんでうちに入ってきたの?」
掃除をしているようでしていない明松くんがおれの顔を不思議そうに覗き込んで話しかけてくる。前から気になってたんですよ、と続けてから掃除をするフリをするのを止めたようで、明松くんはハタキを抱えたまま腕組みをしたままこちらに身体を向けた。
「だって薬剤師だったんでしょ。うちなんかより全然給料いいじゃん」
「そりゃあ、給料は前の方が数倍よかったけれど」
「けれど?」
「まあ、言うなれば自分探し……ですかね」
「うわ、本当にそういう言葉使う人間、この世に存在したんだ…」
明松くんはうげ、と声は出さなかったもののまるで汚物を見るような顔をした。自分で言っててどうかとも思ったけどさ。でもあのまま働き続けてたら絶対父親みたいな融通の効かない男になってしまうということに、ある時ふと気づいてしまって、それに気づいてしまったら最後。気づいたら辞表を出してた。
「おれ、自分で何かを選んだの、生まれてはじめてだったんですよ」
明松くんがきょとんという顔をする。
「生まれてはじめて?」
「生まれてはじめて」
「えっマジで?」
「うんマジで」
まるで別な人種を見るときのような目で明松くんはおれを見ている。確かに30歳童貞の男は珍しかろう。何を思ったのか彼はぽん、と手を肩に置いて耳元で告げる。
「今度…いい店、紹介しますよ」
できれば、ハードルは低くしてもらえると助かる。

不自由のないように育って欲しいということで、親からは何もかも揃えてもらっていたんだと思う。おれの欠陥は生まれた頃からあったのにも関わらず、周囲がそれを許してくれないという環境下にあったため、それに気づくことすらできなかった。
だからそんな風に30年以上も生きてきたものだからそれがおかしいことだって分からなくて、気づいたら周りに人は居ないし身体も壊しかけていたんだろう。金持ちになって欲しいって親はそう言って俺を薬学部まで出してくれたけれど、お金があっても心はすり減っていくし、しかも誰とも付き合ったこともないとなると、それって本当に生きているの?と疑いたくなる。いや、正直なってしまったから仕事を辞めてよくわからない探偵とかいう職業に就いてしまったのだけど。
明松くんに言ったことは本当だった。自分がわからなくなったので仕事を辞めて全然違う職業に就いてみた。ここに入ってから自分がいかにおしゃべりなタイプだったかって気付かされたし、おもったよりも暗い人間じゃないのかなとも思えてきた。それでもやっぱり女性は苦手で、喋れば喋るほど吃ってしまって、なんだか情けなくなってきて、気も小さくなる。つまり悪循環だ。いいことがない。
なんでこんなに憂鬱になっているかというと、そうさせる要素があるからだ。予定表の中に『14時来客:宮本様/久那(南方)』と書いてあって、死刑宣告なのかな?と朝からずっと思っている。宮本さんってこの間南方先生が担当していた若い女性だって知ってる。流石に業務には慣れたとはいえ、女性への対応はやっぱり不安が拭えない。
13時になって南方先生が戻ってくる。外は寒かったようで鼻先が少し赤くなっている。マフラーを外しながら少し茶目っ気を持たせて、驚きました?と笑う。予定表のことを言っていることはすぐにわかった。
「死ぬかと思いました」
「苦手だってのはわかっているんですけど、一応僕がサポートで入りますから」
「……いつもすいません」
「いいんですよ。慣れて貰えれば大丈夫なので」
事務所に常備してあるコーヒーを入れて、南方先生は熱い、と言いながら静かに啜る。来客の予定までは少なくともあと50分くらいはある。お昼は食べて来たのだろうか、少しだけ油の匂いがする。
「いきなり違う職業に来たんですから、それだけでも大変だってわかってますから。ご自分のペースで業務に慣れてくれれば僕はそれで十分なので」
南方先生はそんな言葉を投げかけてから自分のデスクに腰掛けた。新人がこんなこと言われたらもう絶対ついて行こうって思わせるセリフランキングがあったなら堂々の1位だ。おれがもし前職の時こんな言葉を先輩にかけてもらっていたら、多分きっと薬剤師を辞めることなんてなかっただろう。なんていい上司。年下なのにしっかりしている。この人と結婚するんだったら、相手はきっと幸せになれる。そんな確証があるような。
「南方先生は優しいですね」
ぼくが何気なくそう言ったら、ペンが滑り落ちる音がした。音のする方に目を向けると、少し驚いたような顔の南方先生がペンを拾いながらこちらを見ていた。
「優しい? 僕が?」
「は、はい」
別に優しい人に優しいと言うことは、普通のことだと思っていた。だからこんな感じで返答がくるとは思って無くて、おれは少し戸惑った。一応それを顔に出すのは失礼かなと思って、なるべく出さないようにはしたけれど、本当に大丈夫だったかはわからない。少しだけ間があってから眉を下げ、南方先生は笑って答えた。
「じゃあ、褒め言葉として、受け取っておきます」

——褒め言葉として言ったのになあ。
人との付き合いがあまりないおれにとって、南方先生の反応は酷く新鮮だった。あれは、自分を優しくないと思っているから出た反応なのか? 女性との打ち合わせはそんな事が頭の中で引っかかったままだったので上の空で、そのせいか上手くいってしまった。
夕方になって冷えてしまったのみかけのコーヒーをぐいっと煽る。苦味が口の中に広がってもなお、彼の反応の真偽は良くわからなかった。

171208
せさみ

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