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自己充足的であれ


最近、業務の引継ぎが上手くいかずに荒ぶった。
「詳細はインスタのストーリーを。」と言いたいところだが、良くも悪くも24時間で消える安心感に頼って消えた投稿を復活させたくない。


積もり積もった嫌な事の数々の詳細をココに書き上げて満たされようかとも思ったけど、絶頂病みウィークにそれをやったら逆効果だと思い、ちょっと落ち着くまで待ってみた。


一時、看護師の友だちから教えてもらった『インシデント報告書』なるものを自己流にアレンジし、経理版!仕事ミス特集!というタイトル付きの冊子が出せそうなほどオリジナルミス日報シリーズが溜まった所で病んだ。なんだって嫌な事に目を向けるのにはエネルギーが必要だ。


このnoteを書き始めた時はデューイの『自己充足的であれ!』という言葉に感銘を受けて書き出したのに、1週間も経つと何を書きたかったのかまるで忘れている。


とりあえずデューイが良すぎるのは確かだ。

知識の内容は、すでに起こった事、終了し、またそれゆえに解決され、確実であると考えられているものなのであるが、知識の関係する先は未来、すなわち前途なのである。

というのは、知識は、今なお進行中のことや、これから行われようとしていることを理解したり、それに意味を与えたりする手段を提供するからである。

医者の知識は、本人自身が直接体験したり、他人が確かめ、記録したことを学んだりする事によって見出されたものである。

しかし、それが彼にとって知識となるのは、彼が直面する未知の事物を解釈し、部分的に明らかな事実を、それと関連して思い当たる諸現象で補充し、それらの事実の起こりうる未来を予見し、それによって計画を立てるのに役立つ手段を与えるからである。

知識が、不可解で当惑させるものに意味を与えるために用いられることから切り離されると、それは、意識から完全に脱落するか、さもなければ、美的観照の対象となってしまうのである。自分が持っている知識の均整や秩序を見渡すことから多くの情緒的満足が得られる。しかも、その満足は正当な満足である。

民主主義と教育(下) ジョン・デューイ


業務の引継ぎ中に感じたイライラがここに凝縮されていた。今回の私の立ち位置としては業務を受ける側。だから前任者から知識を頂戴する立場だったわけなのだが、前任者からは【前任者が自己満足するだけの引継ぎ】が行われた。

そんな引継ぎは目次もない。引継資料もない。質問に対する回答も返ってこない。Do?で聞いた質問にYES/NOの回答が返ってくるのは1.5日後。そんな伝言ゲームだけで制限時間内に答えに辿り着くはずがない。まさにデューイが言うように、知識が不可解で当惑させるものに意味を与えるために用いられることから切り離された状態が目視できた引継ぎだった。

最終的に会話が成立しなくなり、我慢できなくなった私がブチギレ、部長から継続不可と判断された結果、引継ぎは書面で行われる運びとなった。


大炎上当日の私としては内面ブチギレなのに、表情としては涙が止まらなくなり、本当に情緒不安定にさせられたと感じた一件だった。まじふざけんなである。「あーもう現状が回復しない」ってぶち当たると、感じてる事って言わなくても身体に出ちゃうのね。自分ではメンタルフワちゃん並みだと自負していても、ぶっ壊れるときは気付いたら壊れている。病みからの脱出に必要なのはレジリエンスだとつくづく思う。


にしても、今回の引継ぎは本当に本当に酷かったんだよ。ちょっと書く気になったので書くと、引継ぎを受ける側が「いつ・何の項目を引継ぐかスケジュールを組め」という無謀な依頼から始まり、「月20時間かかるから」と言う割に、その内訳を開示しない。20時間の根拠がない。


挙句、参考資料が出てきたと思ったら、その隣に書き始めた計算式の答えと一致せず、「答え合わせ出来ないですね、なんでですか?」と聞いたら「私のことが信用出来ないならもう教えられない!」とご乱心。そして沈黙。


50歳近くの係長からの引継だから経験も知識もあって最高そう!なんて甘く構えていた私がバカだった。世の中には実務がパーフェクトなのに、引継ぎに向いてない人間がいる。

これを教訓に精進します云々なんて馬鹿げているので絶対言わない。が、デューイとかJ•Sミルとかキルケゴールとかショーペンハウアーを読んでなかったらここで「そういうものだ。耐えるしかないんだこれからも。」なんて悲観的に悟りを開いていたことだろう。私にとっての知識がこの人達の本でよかった。不可解で当惑させるものに意味を与えるために用いる事ができたよ!

最近読んでいないけど、ニーチェに始まり、ショーペンハウアー、デューイなどなどに辿り着くはじめの1歩となったのが適菜収さんの本。なんでか1円で売られてる。笑


適菜さんは「ダメなものにダメということ」が大事なんだって散々繰り返していたけど、本当にそうだと思う。最後にデューイで締めます。

世界への応用可能性は、過去の、過ぎ去ったものへの応用可能性を意味しないーそのことは事柄の性質からいって問題にならない。

それは、われわれが巻き込まれている動きつつある場面の中で、まだ進行中のもの、まだ解決されていないものへの応用可能性を意味するのである。

われわれがこの特色をそんなにもたやすく見落とし、過去の、そして手の届かないところにあるものについて述べたものを知識と見なすこと自体、われわれが過去と未来の連続性を当然のこととして考えているからなのである。

われわれは、その過去についての知識がその未来を予想し、それに意味を付与するのに役立たないような、世界を考えることは出来ないのである。われわれが、その将来への関連を無視するのは、それがあまりにも強固に含み込まれていて打ち消しえないからにすぎない。

けれども、これまでに論及してきた方法論の哲学の多くの学派はそれを無視するだけでなく実際には否定しているのである。それらは、まだ存在しないものの処理に知識が役立つこととは関係なく、知識をただそれだけで完全なものとみなすのである。そして、知識のこの有効性を見落としたために、それらの学派は、意義を失い、知識についての妥当な考えによって非難されるような教育方法を支持するようになったのである。

というのは、時として学校において知識の獲得とみなされているものを思い出しさえすれば、そこに生徒たちの進行中の経験との何らかの実り豊かな関連がいかに欠けているかーー書物の中にたまたま貯えられている教材を自分のものにしたというだけのことが認識になると、どれほの広く信じられているように見えるからーーが分かるからである。学習されるものが、それを発見した人や、それが役に立った経験を有する人にとって、どんなに真実なものであろうとも、生徒たちにとって、それを知識にするようなものが、何もないのである。その人自身の生活においてそれが身を結ばないならば、それは、火星とか、ある空想の国についてのことと変わりがないだろう。

「理性」は、以前の経験の内容を、新たな経験の内容の意義を認識するために集中する能力なのである。人は、自分の感覚を直接打つ事象を、独立したものとしてではなくて、人類の共通の経験との関連において見ようとする態度をいつも持っているならば、それだけ、理性的なのである。

感覚論の学派にも合理論の学派にも共通する誤りは、どちらも、古い経験を新たな経験に適用するための経験の再組織に感覚的刺激と思考の両者の機能が関係しており、そのことによって、生活の連続性すなわち一貫性が維持されるのだ、ということを認めなかったことである。

プラグマティズムの本質的な特徴は、認識と、環境を意図的に改変する活動との連続性を維持することである。それは、知識は、われわれが所有しているという厳密な意味において、われわれの知的手段ーわれわれの行動を知的なものにするすべての習慣ーから成るのである。

われわれが、環境を自分たちの必要に適応させ、また、われわれの性向に組織されてきたものだけが、真の知識なのである。





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