「葵の隠密」企画書

キャッチコピー:「国家の安否みな正盛について達す」と評された実在スパイ・中根正盛の生涯から天下泰平・建立の謎に迫る!

あらすじ:この物語は、太閤・豊臣秀吉死去直前期の西暦一五九八年(慶長三年)五月頃から、江戸・徳川幕府による天下泰平が確立した後の西暦一六六五年(寛文五年)十二月二日の主人公・中根正盛の死去までに渡る、天下泰平を主な題材とした壮大な歴史物語である。
 当の中根正盛こそ、江戸時代の歴史書・寛政重修諸家譜で、「在国の輩より国家の安否みな正盛について達す」と評された程、総じて徳川幕府スパイ機関・公儀隠密のトップ・大目付等を歴任した、初代家康~四代家綱歴代将軍の下で大活躍したスパイであった。
 天下泰平という平和を実現・維持する為に、歴史の裏で暗躍した日本史上最強スパイを描いた歴史スパイ物語が本作にて御開演也。

第1話のストーリー:江戸時代の歴史書・寛政重修諸家譜において、「在国の輩より国家の安否みな正盛について達す」と評された、日本史上最強スパイ・中根正盛は、未だ謎多き偉人である。その理由を端的に言えば、その関連資料の大半が不自然な余りに遺失・行方不明だからである。
 その中根正盛は、延べ百年以上に及んだ戦国乱世を終焉させた江戸・徳川幕府の太祖・徳川家康の重臣の一人でその幼馴染である平岩親吉の孫として西暦一五八八年に生誕した。
 けれども正盛自身は、生家・近藤家から詳細不明ではあるが、総じて主君・家康の長男・信康を巡る世に云う築山事件に連座して没落した中根家の養子となった。その結果、祖父・親吉のコネを通じてか、家康の跡継ぎ・秀忠の小姓に採用されたが、いわゆるエリートコース組などではなかった。
 こうして、長きに渡る幕臣人生を始めた正盛であったが、若輩なれども力量等を見込まれたのか、西暦一五九八年五月頃に伏見に家康・秀忠親子共々居た折に、家康の謀臣・本多正信から剣術師範・柳生宗矩の推薦もあり、いわゆる使い走りに抜擢されるに至った。
  但し、先の人事に本多正信の長男にして家康の近臣・本多正純を初め一部がこれに異を唱えた為に、正盛の提案で正盛・正純両者による剣術試合をした結果、弁慶の泣き所を突いた正盛の勝利で終わったことで、衆目一致による正盛の評判等は大いに高まるに至った。
 そして、正盛は、主君家康らの目前にて、元服前にも関わらず、正々堂々見事な立ち振る舞いをした上で、自ら危険も伴う使い走りに志願することを進んで公言したのであった。
 時勢は、時の天下人である太閤・豊臣秀吉死去前夜の権謀術数渦巻き暗雲漂う一寸先は闇の戦国日本政界に、未だ少年の身なれども正盛は、かくして足を踏み入れたのであった。
 その正盛の初任務は、徳川家康と深い誼を水面下で通じる伊予国板島八万石大名・藤堂高虎の伏見大名屋敷へ、直属の上司である本多正信からの密書を持参することであった。その折に藤堂高虎とその家臣達から正盛自身への好感を得ることに成功し、徳川・藤堂両家間の連絡係を今後も依頼されるに至った。
 総じて初任務をやり遂げた正盛は、その晩に本多正信から呼び出され、色々な世間話等をした上で、家康・正信・高虎三者共通の夢である「天下泰平」を聞き感動するに至った正盛もまた、その夢物語実現の為に我が身を捧げることを正信に対して誓うのであった。

第2話以降のストーリー:本作『葵の隠密』のストーリー構成は、前編「戦国終幕編」、中編「鎖国闘争編」、後編「泰平完成編」の三部作体制とする。
 まず初めの前編「戦国終幕編」は、西暦一五九八年の太閤・豊臣秀吉・逝去直前頃から西暦一六一六年の徳川幕府初代将軍・徳川家康逝去までの期間における歴史物語とする。
 主人公・中根正盛は、若輩なれども利発な誠実者あること等から、徳川家康の参謀格で重臣の本多正信のお眼鏡に適った結果、その与えられた「使い走り(後の御庭番)」の役名の下、主家・徳川家の隠密(スパイ)活動にその身を投じていくことになる。
 こうして正盛は、以後、その隠密活動を通じて出会うに至る多岐多様な数多の同時代の偉人等と知遇を得ることで、正盛自身も人間としての成長等を遂げていくのであった。
 特に中根正盛の人格・見識観に強い影響を与えた双璧の賢人こそ、前者は徳川家康をその知恵袋で天下人に押し上げた戦国屈指の謀将・本多正信であり、後者は家康・正信と同じく「天下泰平」の夢を共有し尚且つその実現の為に我が道を行く名将・藤堂高虎であった。正盛は、その隠密任務を通じて、先の両名から「天下泰平」を初め様々な薫陶を度々受けては己の糧に吸収していくのであった。
 そして、太閤・豊臣秀吉亡き後に起きたかの関ヶ原の戦いにおいては、伏見城で敵勢四万相手に僅か二千前後の手勢で籠城戦の末に玉砕した、後世に「三河武士の鑑」と評された徳川家重臣・鳥居元忠から直々の密書を関東にいる徳川家康へ届ける等、年少の身ながら秘密任務を次々こなすなどの活躍を見せた。因みに諸説あるが、この時期に正盛は、それまでの中根平十郎から改名していたと推測され、漫画では、元忠に烏帽子親を務めて頂く形で、捨て死に覚悟の籠城兵達が見守る中で、正盛本人の元服式が執り行われる感動逸話がある。
 その関ヶ原の戦い以後も、正盛は、自らスパイである隠密として徳川・豊臣両家を中心にした戦国乱世の最終覇権抗争において歴史に残ることのない功績を幾度もこなしていくのであった。この結果、徳川家康・秀忠親子や本多正信らの推薦により、次期将軍・家光の近習チーム、つまりエリートコース組を意味する計六十一名もの次世代幕府高級官僚候補生達の主要格に抜擢されるに至った。
 次の中編「鎖国闘争編」は、西暦一六一六年の戦国乱世を終焉させた徳川家康の死去後から、西暦一六三七年に起きた俗にキリシタン一揆と称される島原の乱に伴う西暦一六四一年の鎖国体制の完成に至るまでの期間における歴史物語とする。
 徳川家康死後の江戸・徳川幕府は、「元和偃武(天下泰平)」政策の下で、元豊臣派の外様大名諸家初め未だ幕府に服従しない親藩・譜代・外様問わず反江戸幕府派諸藩を先の方針の下で次々と改易等していくのであった。具体的な実例を挙げるならば、外様大名ならば豊臣秀吉の子飼いで有名な広島藩四十九万八千石大名・福島正則を初め、親藩では越後高田藩四十五万石大名・松平忠輝や越前北ノ庄藩六十八万石大名・松平忠直など、徳川幕府に触れ伏さない大小数多に及ぶ反幕府派諸大名は、次々と所構わずお家取り潰しされていくのであった。勿論、この大名改易ドミノ現象の裏には、正盛属する公儀隠密(徳川幕府スパイ機関)が陰で行った歴史の闇に葬り去られし数多の暗躍劇があったことは云うまでもないことである。
 その正盛もまた、最初の徳川秀忠配下の一小姓の身から、隠密仕事を通じて立身出世街道を総じて歩むに至り、西暦一六二五年に知行二二〇石の旗本から、西暦一六三二年の将軍近習組である「御小納戸」への抜擢を通じて、西暦一六三五年には、「御側」と呼ばれる時の三代将軍・家光の側近へと抜擢されるに至った。この御側就任に際して、正盛は、計二十二名からなる国目付を与力として頂く形で、事実上の公儀隠密総元締め役(いわゆるスパイ長官)へと大出世したのであった。
 改めて述べる形になるが、江戸時代後期の歴史書「寛政重修諸家譜」によれば、西暦一六三〇年代初頭から以後二十年以上に渡る中根正盛の権勢について次のように評している。それ即ち、『其後御側となり、与力二十二騎をあづけられ、式日には評定の席に列り、諸奉行等が公事決断のむねを上聴に達し、ならびに御家門・国主・城主等への密事を奉はり、在国の輩より国家の安否みな正盛について達す』と記されていた程、中根正盛が、三代・家光~四代・家綱両時代の徳川幕府政権運営において不可欠なキーパーソンであったことが、読者諸兄にも窺い知れたことであろう。
 だが、先述の正盛自身の出世階段もまた、順風満帆の道などではなかった。この間、恩人である本多正信の長男・本多正純が宇都宮釣り天井事件で紆余曲折の末に失脚するなど、徳川幕府内部でも権力抗争が繰り返し起きており、天下泰平の治世継続は、堀の塀の上を歩くが如きまさしく修羅場の道であった。
 また、当時世界屈指の銀山大国である日本を狙うスペイン・ポルトガル両国等との外交問題という国難等もあったことから、正盛自ら西暦一六三七年の島原の乱に伴う鎖国体制確立の為に東西奔走する形で、元和偃武という多大な努力と犠牲の上で勝ち取った平和を守るために陽に陰に自ら暗躍したのであった。
 かくして、本作の最終章たる後編「泰平完成編」は、西暦一六四一年の鎖国体制の確立から、西暦一六六五年の主人公・中根正盛死去までの期間における歴史物語とする。
 島原の乱後の中根正盛は、長年の功績に基づいて、西暦一六三八年に従五位下壱岐守に叙任し、その二年後には知行五千石に加増され、江戸幕府高官職「大目付」に最終的に任じられた正盛は、艱難辛苦の果てに実現させた天下泰平の治世を今後も維持すべく、以前と変わらぬ精力的な働きをこなしていた。
 だが、西暦一六五一年に三代将軍・家光が急死する危機が起きる。次期将軍・家綱は幼少の身であったことから、家光に後事を託された正盛は、「知恵伊豆」の異名を誇る老中・松平信綱や将軍後見役の保科正之らと共に、以後西暦一六五一年の慶安の変を初め多岐に渡る数々の難局と対峙することになる。
 とりわけ、家光死去直後の徳川幕府が抱えていた山積する課題の中でも一番厄介だったのは、当時反幕府派筆頭の紀州藩主・徳川頼宣らが関与した世に云う浪人問題であった。
 この頃、徳川幕府が長年行った大名改易ドミノ現象で生じた大量の浪人達の再雇用を巡り、徳川頼宣らは、勃興した中国・清朝と抗戦していた明朝残党勢力支援を口実に海外出兵を水面下で目論んでいた。それ即ち、後に「日本乞師」と呼ばれる従来の天下泰平政策とは真逆の軍拡等に真っ向から反対した中根正盛は、時を前後して、油井正雪らが計画した徳川幕府転覆未遂事件である慶安の変に際して、切腹覚悟の捨て身作戦で頼宣本人も巻き込み事実上その失脚へ追いやるに至った。
 その後も、中根正盛は、世に云う「寛永の遺老」と呼ばれし古参大物幕臣の一人として、自ら主導して隠居・軟禁状態に追いやった徳川頼宣ら不満分子勢力の監視を初め、公儀隠密の名の下で、天下騒乱に繋がる火種を悉く絶つことにその晩年まで尽力したのであった。
 格の如く正盛らの活躍等で確立した、今では「パックス・トクガワ―ナ(徳川による平和)」とも呼ばれし天下泰平の平和な時代は、以後幕末までの約二百年間に渡り続いた。

#週刊少年マガジン原作大賞


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