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Vol.1 秋元 太樹

こんばんは!
SS伊豆背番号17、秋元太樹です!
静岡県は伊豆半島最南端の町、
南伊豆町出身の23歳です。

トップバッターで、さらにnote初心者ということで、手探りな部分も多いため、読んでくださる方にご不便お掛けする部分も多いかもしれませんが、少しでも自分のことを知って貰えればと思っています。

今回は自分のこれまでのサッカー人生、
そこで得た経験や思いを、経歴を辿って現在に至るまでお話します。

あと【 】内は完全な余談なので、飛ばして読んでくれても構いません。

よろしくお願いします。

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サッカーを始めたのは確か6歳のころ。
兄二人が既にサッカーをしていて、なんとなくというか、ごくごく自然な流れで自分もサッカーを始めたのがスタート。

地元のチームに入団し、今思えば周囲の人達や仲間にも恵まれ、小学生らしく伸び伸びやっていたと思います。当時からポジションはFWでした。
あと当時はオラついてました。恥ずかしい。

【因みに、この頃からミランとプロレスを好きになり、今もそれは変わりません。当時の僕の憧れの選手は、サッカーはインザーギとカカ、プロレスラーはトリプルHで、小学生の頃の夢はミランの選手になるかWWEの選手になるかの超ビッグな二択で迷っていました。】

・・・・・

そんな小学生時代を送り、中学進学。

【この辺りから視力が落ち始め、メガネを買ったのですが、早い段階でフレームを壊し、仕方なく割り箸とセロテープで補強したメガネで平然と学校に通ってた時期ですね。あと始めて彼女ができたのもこの辺です。格闘技を見始めたのもこの辺だったかな。】

ここで、今後の人生にも響く大きな転機。
中学時代に選んだ部活は、バレーボール。
理由は単純で、サッカー部がないから。
じゃあサッカーはクラブチームで……
と思ったが、それも無い。
厳密に言えばあるのだが、問題なのは、そのチームの活動拠点は、家から車で45分。混めば1時間。距離的にはいけないこともないが、両親は共働きで、兄弟もいる。その他諸々家庭の事情からそれも断念せざるを得なかった。

ということで、仕方なくバレー部入部。
あと、部活ではなかったけど、学校が陸上の大会には希望する生徒は何故か参加して良いとのことだったので、陸上もやってました。指導者などはいないので、陸上経験者の先輩のアドバイスと、あとは完全に自己流でしたが。笑

一番肝心のサッカーは、中学の同級生にはサッカーをやりたいという人が1人もいなかった為、中学進学後も小学生の中に混ざってやるしかない。
あとは学校から帰宅後に近くの小学校で一人でバー当てとかやってました。

高校に行ったら絶対にサッカーをやる。
高校に行くまでの辛抱。
という思いだけがモチベーション。でも競う人もいなければ一緒にやる人もいない。
学校の昼休みに流行ったのもバスケ。
自分が惨めに思えて仕方なかった。

小学生のころのチームメイトや、隣町のチームの上手かった人が、中学でサッカーを続けている姿を見たり、他所のチームでやっているという話を聞いて、本当に羨ましかったし悔しかったのを今でも思い出します。

【その鬱憤をなぜかバレーでなく陸上にぶつけた結果、自主トレのみでまさかの100mで静岡東部3位。走幅跳では県6位になれてしまった。地味に自慢なので書いときますね。】

周りの友達も部活とか習い事で熱中できるものを見つけるなか、自分はどうしてもバレーに向き合えず、サポーターやシューズの一つすら欲しがること無く、中学生という多感な時期に、恐らく静岡県内で唯一、バレーの試合をフットサルシューズで出るという狂気じみた行動をしてました。

陸上もやってたけど、そこまでの熱意もなく。
結局熱くなれるものを見つけられず。
中学生活終了。

・・・・・

いよいよ高校。
家からの通学圏内でサッカー部があるのは2校。
その内の1つ、下田高校へ進学。
「いよいよサッカーが出来る!!」
と思っていた矢先、またしても緊急事態。

下田高校は地元では進学校ということもあり、入学早々にあるインターハイの予選が終わると、大体の3年生は選手権を待たずに引退してしまう。
その結果、僕が1年生時のサッカー部には2年生も合わせて12人のみなってしまった(何故かマネージャーは3人もいた)。

そんな状況故に、チーム内の競争も無く。
全然身が入らない。典型的な弱小校。
一番上手いのは顧問の先生。笑
自分の想像した高校サッカーとは全く違かった。
サッカーをやれる喜びは確かにあったけど、
「中学三年間我慢して、これか。」
っていうのが、本音。

事実、高校時代を振り替えると、思い出すのは負けた試合ばかりが脳裏によぎる。
選手権で富士市立さんに9-0で、新人戦で加藤学園さんに11-0でボコボコにされたこと。中学生チームと五分五分以下の内容の試合をしてたこと。
多分死ぬまで忘れないと思います。笑

【この時期からaikoさんを好きになり、えげつないくらい曲を聴いてました。あと当時付き合ってた彼女に降られて、めちゃめちゃへこんでたのも束の間、その翌月には同じサッカー部の同い年と付き合ってて完全にメンタルブレイクしたのもこの辺でしたね。】

でもここで出会った仲間には感謝してます。
それでも勝てた試合は皆で喜びを分かち合ったし、仲間がいなきゃ高校ですら、サッカーが出来なかったかもしれないから。
本当にありがとう。

とはいえ、やっぱり不完全燃焼。
『大学に行くなら国立の大学』という親との約束のもと、大学でサッカーをやろうと思ったものの、赤点を回避する為だけにしか勉強をしていなかったツケはその時にしっかり回ってきて、自分が行けそうな国立大学なんてない。

さてどうしようか?とその旨を顧問の先生に相談したところ、紹介してもらったのが、当時まだ設立1年目のSS伊豆。
ここで始めてSS伊豆の存在を知る。

少し調べて、
「自分の実力じゃだいぶ厳しいだろうな」
と思ったのが正直なところ。
でも卒業後にサッカーをするなら残された道はここしかない。意を決して顧問の先生に「ここでやりたいです」と伝えた。

そんなこんなで下田高校と練習試合をマッチングしてもらい、始めてチームの活動に参加。
かなり緊張した。
が、すぐ絶望に変わった。
『みんな上手くね?俺ここでやんの?絶対無理じゃん』と。心が折れかけてた。笑
まぁ当然と言えば当然でしかない。

大卒の選手、大学のキャプテン、元Jリーガー
海外で元プロの選手、名門高校出身の人。

冷静に考えれば、当たり前だった。

後日、片岡代表から顧問の先生に、
「来年度からよろしくお願いします。」と連絡がきたが、内心めちゃくちゃ焦っていた。

高校生活終了。

・・・・・

そして社会人。
加入が決まったからにはやるしかない。
卒業後すぐにチームの練習に参加。
そしてやっぱり絶望した。
分かっていたが、改めて、自分が下手すぎる……。

仕事との両立や自分の下手さに、毎日がむちゃくちゃしんどい時もあった。
「これは長くは続けられないな」
と、加入当初は思うこともしばしば。

でも、いつどんなときも、常に目をかけてくれる先輩や同世代の仲間に救われた。こんな下手な自分を毎日毎日フォローしてくれた。
怒られることも度々あり、へこむこともあったが、それでも徐々に充実した生活を送れていると実感していけるようになった。

そんな生活を続けて、今年で6年目。
入った当初からは、環境も、メンバーも、ガラッと変わってしまったけど、今も昔も肝心なところは変わらない。チームメイトに支えられている。

中学高校のころの自分は、今の自分を見てどう思うのだろうとたまに考えます。
思ったよりも今が下手すぎて落ち込むかも。もしかしたらサッカーに見切りをつけて別競技にシフトするかもしれない。笑

ただ1つ言えるのは、中学時代のサッカーをしたかった自分と、高校時代の不完全燃焼の自分がいたおかげで、今があるんだと思う。

むしろトントン拍子に中学高校と自分の思った通りにサッカーできていたら、上手い人とか直接目の当たりにして、思春期真っ只中の自分は、逆に早い段階でやめてたかもしれない。

それに、バレーのおかげで跳躍力がついたかもしれないし、陸上のおかげで走力も身に付いたのかもしれない。今の自分の武器です。
自分はまだ大怪我をしたことないけど、中学の時に色んな運動をしたおかげで、怪我しにくい体質になったのかもしれない。笑

そう考えると一見関係無さそうなことも、全部繋がるのかも。何ならもう少しバレーも陸上も真面目に取り組めばよかったとすら思う。笑

全てに意味がある。
そして今日も、明日も、仲間に支えられながら、応援してもらいながらサッカーをしていく。

あとは僕の両親も、南伊豆という限られた環境下で、最大限のサポートをしてくれたと思う。
一緒にボールを蹴ってくれた父親と兄弟にも感謝したい。

皆様、本当にいつもありがとうございます。
未だにサッカーには自信無いし、めちゃめちゃ下手な自分ですが、少しずつ、プレーや行動で、恩返し出来ればと思っています。

今後も、こんな自分をよろしくお願いします!

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以上になります。
長たらしくて、上手くまとまらない文章でしたが、始めてなので大目に見ていただけると幸いです!笑

次回は3月10日更新予定!
次回は背番号14番、
ドライブ大好き、カットイン大好き
栃木出身の同い年!伊藤 心!
よろしくお願いします!

ありがとうございました!!


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