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Vol.14 武市 健太

SS伊豆を支えて頂いてるスポンサー企業の皆様、サポーターの皆様、SS伊豆に関わる全ての皆様、日頃からご支援、ご声援ありがとうございます。

今季もSS伊豆への変わらぬご声援よろしくお願い致します。

今回のnoteを担当させて頂く事になりました。

今シーズンで入団3年目を迎えますSS伊豆7番武市健太です。

東京都大田区出身の24歳です。

自分の人生を語る機会は少ないと思うので長くなりますが最後まで読んで頂けると幸いです。

兄の影響で小さい頃からサッカーボールを
蹴っていて本格的にサッカーを始めたのは
小学校1年生でした。
兄と同じ地元の下丸子シューターズという
チームに入団しました。

小学校1年から6年までずっとFWで6年の時にはキャプテンもやらせてもらいました。
小学校5・6年には、地元の選抜にも入ってヴィッセル神戸相手に2点決めて2ー0で勝ったのが1番嬉しい思い出です。

中学進学前にどこでサッカーをするか迷い
ましたが、ここも兄と同じ地元のインテリオールというチームに入団しました。

中学校1年はFWをやっていました。
しかし、あまり思ったような活躍が出来ていなかった。背が伸びず小さかったので監督から一回ボランチをやってみろと言われてそこ
から中学校時代はボランチの選手になりました。中学3年ではキャプテンもやらせてもらいました。チームとしてはいい結果が残せなかったけどこのお陰でサッカー選手として大きく慣れたと思っています。

高校は何度も誘って頂いた東海大学付属高輪台高校に入学しました。

入学してからすぐにTOPチームに混ざりました。先輩達がうますぎて初めてサッカーが嫌いになったのを覚えています。高校1年ではTOPと一個下のチームを上がったり落ちたり
を何度も繰り返していました。
結局1試合も出る事は出来ませんでした。

高校2年になって、やっとボランチで試合に出してもらえるようになりました。
インターハイは東京都ベスト11。
選手権は怪我出る事が出来ず1回戦負け。
1・2年と選手権を味合う事が出来なかった。

自分は早生まれと言うこともあり1個下の東京都選抜の選考会に呼ばれました。

ここで人生1番の挫折を味合う事になりました。ほとんどがユース出身で後は強豪校から
来ていました。選考会が始まるとこいつら本当に1個下なのかと思うぐらい技術があって強くて上手いのもちろん、サッカーのスピードが違うのを今でも覚えています。

もちろん落選。
悔しいというのもあったけど現実を突きつけられた感じでした。

あのスピードを忘れないように高校の練習に
戻っても意識しながらやりました。

自分の代となってキャプテンを任されること
になりました。

自分の代になって関東大会予選・インターハイ予選も1回戦負け。
なかなかすぐには切り替える事が出来なかったけど後は選手権しかないと思いそこに向けてやっていきました。

リーグ戦も5連勝とチームとしても勢いがあった中でリーグ戦ラスト10分で相手と接触し痛くて立ち上がる事が出来なかった。

嫌な予感がしました。次の日に病院行くと初めての右足首骨折。全治3ヶ月。選手権まで1ヶ月半しかなかった。泣いた。これで高校サッカーも終わりかとまで終わった。

しかし母は諦めていなかった。病院に電話をし、自分の怪我の状況を話し、選手権までに治せるかなど医者に電話をし病院を見つけてくれた。そこの病院に通いながらリハビリを
した。

1回戦は間に合う事が出来ずチームは勝利し
2回戦の1週間前から復帰が出来ました。
2回戦は強豪校実践学園。ベンチ入りをする
事ができ、1ー1の延長からサイドハーフでピッチに立つ事が出来ました。

今でも覚えています。ピッチに入った時にうちのキャプテン戻ってきたぞという、応援団の声。骨はくっついていなかったけどこの応援団のために頑張らないと。

延長終わって2ー2。PK戦で決めれば勝利
で自分に回ってきて外しました。でもGKが
先に動いたため蹴り直し。こんな事あるんだ
と自分でも思いました。次は決めて勝ちました。選手権で蹴り直しも珍しいが、骨がくっついていない状況でPKを蹴ったのが自分だけじゃないのかと今でも思っています。

次の成立学園戦は後半途中からボランチで
出場し、結果0ー0でPKで負けて東京都  Bブロックベスト8で終わりました。

正直不完全燃焼でした。100%の状態でやり
たかったというのが本音です。でも周りの
サポートそして母の存在がなければ絶対に
出場なんて出来なかった、本当に感謝しかありませんでした。

大学でもサッカーをやりたいというのがあり
東海大学に入学しました。

ここでの4年間はボランチをやる事が1回も
ありませんでした。

ボランチでは使わないと言われました。
確かに自分代の選手もボランチは自分より
上手い選手が多かったので悔しかったけど
ボランチで勝負するのは違うと思いました。

主にサイドハーフでした。高校でもたまに
やっていたので特に違和感なく出来ました。
大学1年の夏まではCチームでそこからBチームに上がりIリーグラスト1試合だけスタメンで出る事が出来ました。

2年になってもBチームで主にベンチで途中
から出る事が多かったです。

1・2年でほとんど公式戦には絡めず悔しい
2年間を過ごしました。

3年になってからいきなりチャンスがきました。TOPチームの合宿に途中で呼ばれて
いきなりスタメン。そこでチャンスを物にしてTOPチームに昇格しました。やっと目標で
あった関東リーグに出れると思っていましたが、関東リーグ前ラスト練習試合で前半25分
交代。代わりに出た人がハットトリック。

そこから関東リーグが開幕し2ヶ月メンバー外でした。この時のメンタルは最悪でした。

入ったばかりの1年生、後輩の2年生が出ているとなんであいつが出てんだよとか素直に応援出来なかったりと人のせい監督のせいにしたり自分の悪い所ばかり出ていた。
自分の実力のなさ、現実を受け入れたくなかっただけ。自分が嫌いなプライドだけ高く、
人のせい、口だけの選手になっていた。

その後何度かベンチ入りする事は出来たが
1試合も出れずBチームに降格しました。

Bチームではやっとスタメンでリーグ戦で
ずっと出れました。主にFWでのプレーでした。6試合4得点。数字だけ見ると悪くは
ないけどチームは降格しました。

あっという間に大学4年。ラスト1年。
Bチームスタートでキャプテンになりました。
Iリーグ前期を終わって2位でした。
そのタイミングでTOPチームから声がかかった。嬉しかった。やっと認めてもらえたと思って。

しかしTOPチームに行くか迷った。
3年の時みたいに1試合も出れず、そのまま
引退もあり得るなって。
考えた結果自分はTOPチームを断った。
周りからしたら、ダサい、情けないと思った
人も多いと思う。自分でもそう思う。

それでもBチームで残りの半年結果出して
やろうと思った。
結果Iリーグ優勝。全国かけたトーナメント
では1回戦で負けて引退。
後悔はない。あの時決めた決断が正しいとも
間違ってるとも思ってない。悔いなく最後
までやれました。
大学4年間寮生活もいい思い出です。

大学4年ではサッカーと同時に就活もしました。周りよりは少し遅く始めました。
行きたかった所があったのでそこにはサッカーでは受かって面接で落ちました。
正直受かると思っていたので落胆しました。
その時は7月の後半。周りはもうほとんど
進路が決まってる状態。そこからとにかく
就活をし、何とか内定をもらいました。

でも、引退する前にまだサッカーやりたいな
って思いました。その時にたまたまSS伊豆
のTwitterを見ました。それがきっかけです。
そこで連絡をとり、練習参加させてもらって
びっくりしました。仕事終わりとは思えない
強度でやっていて、本気でまだサッカーが
出来るし、まだ上手くなれるなって思いました。この時にこのチームに決めていました。

周りや家族に静岡のSS伊豆でサッカーやりながら働くというと、なんでわざわざ静岡、
しかも県リーグ2部で、東京や神奈川でもっといいチームあるでしょ、内定蹴ってまですることかという声が多かったのが事実です。

しかし、母だけは自分で決めたなら頑張りなさいと。いつも否定せず応援してくれていました。本当に感謝しかありません。

大学1年の時に自分の父は亡くなりました。
父にはサッカーの全てを小さい頃から教えて
貰いました。小さい頃から練習がない時は
河川敷に2人で行ってボールを一緒に蹴って
くれました。サッカーだけ頑張りなさい。
そんな父でした。
一緒にお酒が飲めなかったり、大学そして
今サッカーやってる姿が見せれなかったのが
心残りですが、感謝しかありません。
今も暖かく見守ってくれてると思います。

大学入ってすぐだったのでサッカーを辞めようと思いました。
それでも母は大学までは好きな事しなさい、
何とかするからと。
この言葉のおかげで4年間頑張る事が出来たし、いい友達にと巡り会えました。
自分がベンチ入りすると遠くても応援に来てくれて、それは今も一緒で試合を見に来てくれます。

兄・姉と比べたら1番迷惑や苦労今もかけてるけど、少しずつ恩返しするので待っていてください。

静岡に来て3年。
1年目から副キャプテンを任せてもらって
大学ではやらせてもらえなかったボランチで出してもらってリーグ優勝。
1部昇格。

2年目から3人キャプテンの1人に選ばれました。代表から今年はサイドバックをやってもらうと言われて、はいと言ったけど心の中ではモヤモヤした感じでした。

天皇杯、リーグ戦フル出場させてもらいましたが、初めてリーグ戦優勝を逃したりしてました。明らかに得点力不足。失点数はリーグ戦最初失点。

点が入らず勝てない時は、心の中でイライラした時もありました。攻撃の方で俺を出してくれってずっと思ってました。でもそこは押さえて言い方悪くなりますが、我慢してサイドバックをやっていました。

SS伊豆に来てGKとFW以外は、練習試合
公式戦含めてやらせてもらいました。

周りからはユーティリティプレイヤー と思われているかもしれません。だからあいつはずっと出れているだけ、もしかしたらそう思われているかもしれません。

確かに自分より上手い選手はこのチームにも
いっぱいいます。
けど上手いだけがサッカーじゃないって。
大学で気づけました。上手いけど出れない選手も見てきました。

自分はチームのために何が出来るか。
監督が今何を求めているか。
それを理解し、実現出来るかが本当の意味で上手い選手だと思っています。

話は戻りますが、ユーティリティプレイヤー
そんな言葉だけで終わらせて欲しくないって言うのが本音です。
正直めちゃくちゃ大変です。

誰かが怪我したらそこに穴埋めで入る感じ
の時もありました。
公式戦でも、ぎりぎりで右サイドバックから左サイドバックに変更という事もありました。右と左で全然違うし、嫌になる時も正直あります。

でも自分の中でこのチーム、チームメイトが
好きで、東海昇格したいっていうのが1番に
あります。だからどのポジションになっても
全力を尽くしチームのために戦っていくつもりです。

そして今シーズン、再び副キャプテンに戻りました。

チームのレジェンドから背番号7番も受け継がせてもらいました。

リーグ戦3試合終わって2勝1分。
まだまだこれから長い戦いになります。

こう見えて以外とチームの事を考えています。普段はふざけている事が多いです。
試合になるとなんだかんだ1番声出しているとかONとOFFの差がありすぎると結構言われます。

自分はまだいいチームとは思っていません。
全員が全員に思ってる事は言う、そういう
チームにしていきたいと思っています。
まだ言える人にだけ言って、言いづらい人
には言わない、そういうシーンがあります。
本当にいいチームはそこに遠慮せず、先輩
後輩関係なく言えるチームだと自分は思って
います。

誰かがミスして落ち込んでいる時や感情が
出てしまい審判にに文句を言っている時、
そう言う時に自分が1番に助けられる選手
になっていきたいと思っています。

人によって伝え方を変えています。
1人にはこの伝え方で、1人には別の伝え方
このように1人、1人個性があって性格も違う
ので伝え方を変えています。
これが意外と難しいのが本音です。
自分も完璧ではないので間違っている時も
あるかもしれません。
けどそれでも伝えた方がいいと思っています。

自分はあまり人の前で話す事は苦手です。
感情を出すこともあまりありません。
でも人を見る力・人に伝える力はあると
どのチームの監督にもそこは褒められていて
監督から信頼されていた所だと思います。

だから小・中・高・大とキャプテンを任せて
もらってSS伊豆でもキャプテンを任せてもらったと思っています。

あの時Twitterでみてなかったら違う道に
進んでいたのかもしれません。
本当に自分は運がいいなって思います。
今までサッカーで出会えた人もそうです。
そして今も素晴らしいチーム、チームメイトに出会えてました。
地元や高校・大学の友達にも頑張ってとか
応援してるなどありがたい言葉をもらえる
事も多くなりました。
その人たちの期待を裏切らないよう、まずは
静岡で勝ち続けて、この大好きなメンバーで東海昇格を果たし喜びを分かち合えるように頑張りたいです。

話は変わりますが、元生さん、太樹、藍、辻
いつもくだらない乗りに付き合ってくれて
ありがとう。4人のおかげで楽しいです。

本音を書きすぎてチームメイトには読んで
欲しくないです。キャラがぶれるので。

最後に今年の目標ですが、
東海昇格。去年に引き続き全試合フル出場。
そしてボランチで少しでも、自分が1番信頼しているキャプテンと一緒に出る。
今シーズン前に自分が立てた目標です。

このnoteを見て1人でも多くにこのチーム
に興味を持って頂きたいです。

長くまとまりがない文章になりましたが、
最後まで読んで頂きありがとうございます。

SS伊豆の応援よろしくお願い致します。

次は、自分を兄貴と慕ってくれている
渡邉優太郎君です。

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