東郷正永『神田で化かされた話』クロスレビュー

S評出品作:東郷正永『神田で化かされた話

評価 椋:良 高橋:○ 持田:優 高瀬:× 波野:× 


椋 康雄 評価=良

多分自分と近い「はやさ」で書かれているのは『神田で化かされた話』かと読んで感じました。自分もこういう話しが好きでもあります。自分が書くとしたらもっと堅くなるかな……と思いつつでした。でもこういう話しはこの文体で書くからこそ共感を得られるところがあるかとも。


持田 泰 評価=優

おそらくは氏の個性として(また読書家としての)の奥行きの深い詩情がありながら、そこに浸りきらず飄逸に身をかわしていて、その雑学の散りばめ方もバランスがよく如才ない。また「眼のいい作品」で93年の冷夏と「マディソン群の橋」と2014年の「100回同じことを聞いても100回笑顔でお答えする やさしいパソコン教室」は実在性が確かにある。ゆえに「夏っぽい感覚」「お散歩ハイ状態」という素朴で直裁な表現もかえってその素朴で直裁さゆえに小細工はない。開けっぴろげであり地声である。神保町も北品川の商店街にも夏の宵の匂いに満ちて、この文面の向こうにどこかにやけた顔で暮れなずむ街を徘徊している氏の姿が浮かぶ。惜しむらくは謎解きが「方向音痴」であることにすぎないので腹落ち感が薄い。「方向音痴」であるところの「迷子の感度」というのを少しツッコンで書いていくと、本当の「タヌキ」か「キツネ」に出会えるのではないかとは思えるところである。なので作品の出来不出来よりも「優に近い良」とし、だったら「優」でいいやと判断した。期待の意味も込めて「謎解きはいいから一生迷子でいろ」という意味で飲み会では萩原朔太郎「猫町」であるとは伝えたけども、内田百閒の何かの小品にも似た気品ある「実話」を今後も期待したい。


高橋 文樹 評価=〇

「道を間違えた」というごく単純な事実を世紀の大発見かのように語るこの文章は、「なにはともあれ、なぞは解明した」というあっけらかんとした結論によってその凄みを増している。なにも解明していない。この作品はおそらく、「若年性アルツハイマー文学の金字塔」として後世に語り継がれるであろう。この卓抜した書き手と会える年数は指折り数えて両手で余るという事実を私はかみしめたい。また、作品の短さそれ自体が、衰えゆく海馬の記憶容量を象徴しているのも優れたレトリックである。


高瀬 拓史 評価=× 

軽やかで読みやすい文章。玉の輿の由来や謎解きなど知的好奇心を刺激する要素もある。分量も適量。可愛げがないので最低点。


波野 發作 評価=×

物語の骨格が非常に素晴らしいのは、流石は放送作家というところで感服した、いところだが、ここではそんな甘いことはしない。街のトリビアから、お散歩あるあるに展開し、20 年越しのオチを披露し、最終的に街トリビアで伏線とした化かされるとはこんなこと、みたいな話に落とし込んでいるなど、物語の骨格は素晴らしいが、オチがあまりにしょっぱいではないか。しかも柳森神社のあとで神保町に行ったわけではない。ただ旧神田区だというだけで接続しているだけだ。そもそもそんなに近くもない。距離は大したことはないが、間に一山あるし、柳森神社は秋葉原であり、神保町に繋ぐのはちょっと違和感がある。流れが上手いので気づかなかったが、普段あの辺をうろうろしている身としては、そこ飛ぶのか、と思ってしまうのだ。また方向音痴の件についても事象を2つ並べただけで、原因の究明まで切り込んでいない。狐狸に化かされたわけじゃなかったね、というだけで筆を置いてしまった。もちろん原因の究明が必要かといわれれば、極めてパーソナルな現象であり、必要性は全くない。神田界隈に疎い面子であれば化かされたまま気づかなかったかもしれないが、残念ながら神保町〜秋葉原は四半世紀近い私のホームグラウンドである。書かれた町並みは、手に取るように思い浮かべられる。最後まで私を化かしきれなかったので、評価は×です。

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