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午後の4つの色


常々、素材や調理法についての知識は料理人にこそ必要なのであって、食べる人にはただただ「美味いもんを食いたい」という欲求だけをもって食卓について欲しいと思っている。そしてそれはそのまま音楽にも当てはまると思うのだけれど、その一方で、これは何が美味いのか、どう美味いのかをどうしても語りたくなってしまう自分がいる。そんな訳で今日もラーガの話をします。

インド古典音楽の演奏では、作曲された曲の代わりに、ラーガというものが即興演奏で披露される。インドには数千のラーガがあると言われ、それぞれに音階や音の使い方、感情、演奏されるべき時間帯や季節等が定まっている、というところまでがいつもの説明。
その数あるラーガの中で、今回は一群の午後のラーガに焦点を絞って紹介していきたいと思います。

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このアーティクルは2021年5月16日の音や金時インド音楽ライブ&生配信の投げ銭用プラットフォームとして書かれています。アーティクル自体は無料で最後までお読みいただけます。投げ銭は「この記事の購入」か、「クリエイターへのサポート(100円単位で設定可能)」という形でお受けしていますので、よろしければぜひ!投げ銭はライブの前でも後でもいつでも受け付けてます♫

《ライブ情報》
■ 2021.5.16(日)音や金時インド音楽ライブ「午後のラーガ」
西荻窪 ライブハウス音や金時
14:30開場 15:00開演 2500円

《出演》
寺原太郎(バーンスリー)
へまんと(タブラ)
多田尚史(タンプーラ)

配信チャンネル:

https://youtu.be/xpOlaOzLIfY


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さて。延長された緊急事態宣言のお陰でライブハウスも早仕舞いを余儀なくされ、開演時間を3時と早めることになった訳ですが、それならせめて午後のラーガで何か面白いことがてきないか?という訳で思いついたのが表題「午後の4つの色」、दोपहर चतुर रंग(Dopahar Chatur Rang)という演目です。
午後の4つの色、つまり4種類の午後のラーガを、進行に合わせて順番に演奏していくというもので、構成とラーガは以下の通り。

Alap(無拍節、タブラなし):Raga Bhimpalasi
Vilambit Tintal(遅16拍子):Raga Patdeep
Madhya Tintal(中庸16拍子):Raga Madhuvanti
Drut Tintal(速16拍子):Raga Multani

どれも北インドではポピュラーな午後のラーガで、同じ遺伝子を持った同一ファミリーのラーガと言うことができます。すなわち、上行でニサガマパニサと[レ、ダ]を飛ばして5音階で上がり、下行はサニダパマガレサと7音階で降りてくるという点が共通していて、その際の個々の音程の違いによっていくつかのヴァリエーションに分かれているという訳です。


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まずはRaga Bhimpalasiから見ていきましょう。以降の表記では、大文字シュッダ(♮)、小文字ヴィクリタ(♭,♯)とします。

Raga Bhimpalasi  in D
Aroha(上行):ni.(C) Sa(D) ga(F) Ma(G) Pa(A) ni(C) Sa'(D) 
Avaroha(下行):Sa'(D) ni(C) Dha(B) Pa(A) Ma(G) ga(F) Re(E) Sa(D)

ジャズや教会旋法に詳しい方ならドリアンスケールと言えば通りが良いかもしれません。ただ、上行5音階/下行7音階という点が曲者で、そのままドリアンスケールでモード即興をすればいいという訳にはいきません。上行で[Re,Dha]の音を飛ばしているということの意味は、ここでは「ReやDhaの音からは上に上がることはできない」と考えてください。「Sa→Re」は可能だけれど、「Re→ga」は許可されていない、ということですね(上行/下行の意味するところはラーガによっても違うので注意が必要です)。

この上行/下行の考え方は、ラーガでの音の扱いを考える上でとても重要になってきますので、以下に取り上げる午後のラーガの音階を全部まとめて、まず五線譜と鍵盤で示しておきましょう。鍵盤の方には上行/下行の書き分けがないので、ラーガの音階というより、単にそのラーガでの使用音を表したもの、ということになります。

午後1

午後1鍵盤図


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Raga Bhimpalasiと同じ音階を使うラーガには、他にKafiやSindhura、Bageshri等がありますが、何が違うのかと言えば、一番大きな違いはこの上行/下行の音の取り方の違いでしょう。例えばRaga Sindhuraなら上行はサレマパダサと、[ガ、ニ]を抜いた、Bimpalasiとはまた別の5音階で上がることになります。
せっかくですので、午後のラーガ特集からは少し外れますが、それぞれどのように違うのか、どれくらい違うのかというのを、同じ演奏者による演奏で聴き比べてみましょう。どれも皆同じ音階(ドリアンスケール、インド音楽的にはKafi Thaat)をベースにしたラーガです。こんなマニアックな聴き比べそうそうないと思いますので、サワリだけでもぜひ聴いてみてください♫

Pt. Nikhil Banerjee: Raga Bhimpalasi  
https://youtu.be/YdHe4dTc4Dw

Sitar Samrat Nikhil Banerjee: Raga Kafi 
https://youtu.be/pQxk82DGKhM

Sitar Samrat Nikhil Banerjee: Raga Sindhura 
https://youtu.be/FgMdAQ_UNAM

Pandit Nikhil Banerjee: Raag Bageshwari 
https://youtu.be/woMEEyvL_20


いかがでしたでしょうか。例えば3番目に挙げたSindhuraでは、niだけでなくNiの音もガンガン使われているので、そのせいもありますが、上行音階の選び方の違いや、フレーズの核になる音や個々の音の扱いの違いで、同じ音階でも随分違った印象になるのが感じていただけるのではないかと思います。特に4つ目が、ほんとにこれ同じ音階?ってくらい全然雰囲気が違いますよね。実はこれ、4つ目だけはタンプーラの調弦がPaではなくてMaになっていて、そのせいで雰囲気が違うのです。専門的に言えばこれは「グラーマの違い」ということになります。譜例をあげておきます。

午後2

鍵盤図はありません。なぜかというと、鍵盤で書くとこの4つ、全部同じ音階になってしまうからです……

午後のラーガに話を戻しますが、Raga Bhimpalasiでひとつ重要なポイントは、Maの音の使い方です。これは、同じような動きや音階型を持つ他の午後のラーガにはない、Bhimpalasi独自の特徴です。


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続いて午後のラーガ2つ目は、Raga Patdeep。Bhimpalasiとほとんど同じ形ですが、komal niの音が半音上がってshuddha Niに変わります。そのせいで、より希求心の強い、光に向かって一心に手を差し伸べるような印象のラーガになります。キリキリと胸に刺さるNiの音。

Raga Patdeep  in D
Aroha(上行):Ni.(C#) Sa(D) ga(F) Ma(G) Pa(A) Ni(C#) Sa'(D) 
Avaroha(下行):Sa'(D) Ni(C#) Dha(B) Pa(A) Ma(G) ga(F) Re(E) Sa(D)

Ustad Rashid Khan: Raag Patdeep  
https://youtu.be/P4UwqxAnWZs


続いてRaga Madhuvanti。今度はMaの音が半音上がって、tivra maになります。

Raga Madhuvanti  in D
Aroha(上行):Ni.(C#) Sa(D) ga(F) ma(G#) Pa(A) Ni(C#) Sa'(D) 
Avaroha(下行):Sa'(D) Ni(C#) Dha(B) Pa(A) ma(G#) ga(F) Re(E) Sa(D)

Madhuは蜂蜜。tivra ma(G#) からkomal ga(F)への大きくなだらかなミーンド(なめらかな音の動き)が、最も蜜を感じさせるポイントです。午後、日が西の空に傾いて夕方に差しかかる直前の一瞬、すべての空気の粒子が黄金色に輝くような瞬間が訪れることがあります。大気が光に満ちて時の回廊が束の間その扉を開く、そんな特別な瞬間を彷彿とさせる美しいラーガです。
360°のVRでお楽しみください。

Raag Madhuvanti - ‘Honey’ | Late Afternoon | Kaushiki Chakraborty | Darbar VR360 
https://youtu.be/bfHVJJKqZUg

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Bhimpalasi、Patdeep、Madhuvantiと来て、ni/NiとMa/maの組み合わせで考えたらもうひとつ、komal ni で tivra maという午後のラーガがあってもいい筈ですよね。もちろんあります。あまりポピュラーなラーガではありませんが、Saugandhというラーガがそれです。

Raga Saugandh  in D
Aroha(上行):ni.(C) Sa(D) ga(F) ma(G#) Pa(A) ni(C) Sa'(D) 
Avaroha(下行):Sa'(D) ni(C) Dha(B) Pa(A) ma(G#) ga(F) Re(E) Sa(D)

Ustad Kamal Sabri (Sarangi) Pandit Sanju Sahai (Tabla)  Raag Saugandh https://youtu.be/8AU9mVNGsBU
なぜかサーランギの演奏でばかり聴くことの多いこのラーガ。ターラは9拍子のMattatal(2+2+2+1.5+1.5)


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さて、これらの一群の午後のラーガのおそらく元になっているのが最後に紹介する、Raga Multaniです。reとdhaが♭になり、その使われ方もより厳格さが求められる、ムードの強いラーガです。

Raga Multani  in D
Aroha(上行):Ni.(C#) Sa(D) ga(F) ma(G#) Pa(A) Ni(C#) Sa'(D) 
Avaroha(下行):Sa'(D) Ni(C#) dha(B♭) Pa(A) ma(G#) ga(F) re(E♭) Sa(D)

Veena Sahasrabuddhe - Raga Multani 
https://youtu.be/bv6Q9G9w0VA

名前はパキスタンの都市ムルタンから。なのでMultaniという単語は「ムルタンから来た人」というような意味にもなりますが、音楽的にどれほどそこに由来を求められるかは正直わかりません。Raga Madhuvantiで「最も蜜らしい音」と紹介したtivra ma(G#) からkomal ga(F)へのミーンドは、実はこのMultaniというラーガのキャラクターだったのです。でもこっちだとあまり蜜という感じはしませんよね。僕だけかな。

余談ですがこのRaga Multani、朝のラーガMiyan ki Todiとまったく同じ音階になっています(厳密に言えば個々の音程に違いはあるのですが)。同じ音階なのに、片や午後のラーガ、もう一方は朝のラーガ。ラーガの時間感覚を紐解くカギは、どうやらこの辺りに隠されていそうですね。今回はそこまで深く踏み込みませんが、よかったら聴き比べてみてください。同じ歌手によるTodiの演奏を貼りつけておきます。鳥とコウモリみたいな、ラーガにおける収斂進化の見事な一例と言えるでしょう

Vidushi Veena Sahasrabuddhe  Ragas,Miyan ki Todi 
https://youtu.be/0Zzo9Hvzkkg

午後3


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という訳でここまで駆け足で午後のラーガとその周辺を巡るツアーをまわってまいりました。最後までお付き合いいただきまして、どうもありがとうございます。これからもインド音楽とラーガについていろいろ音源紹介や解説記事を書いていこうと思っていますので、よかったらぜひサポートよろしくお願いいたします。それから、皆様もご存知とは思いますが、2021年5月現在インドでのコロナ被害は本当に悲惨な状況です。どうか少しの間だけでもインドに目を向けてあげてください。可能なら手を差し伸べてあげてください。ここで募金を集めることはしませんが、長年インドにお世話になってきた人間として、僕にも何かできることはないかと考えています。

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