インド音楽の即興と練習方法について
「数えてないんですか?」
「数えてないですよ。音楽ですもん」
先程の電話インド音楽相談室でのひと幕。習ったフレーズは弾けるけど、一旦オチると元に戻れなくなるという相談。オチた時、どこを聞いてどう戻ればいいのか、という話。
演奏中に、タブラのリズムのどこを聞いてどう戻ればいいのかと問われれば、すべてを聞いて好きなように、と答える他ない。でもそれじゃあまりに不親切だろ。それに、これは即興演奏の根幹に関わる根の深い問題だから、ちょっと掘り下げてみたい。
インド音楽で、ガットで何をしたらいいかわからないという相談は以前にも受けている。好きにしたらいいのだ。やりたいように、自分の気の向くままにラーガの庭を散策したらいい。ただ、そのままだととりとめがなくなってしまうので、散策路の中に大きな構造を作ってやる。ここは静かに、ここはスキップで、ここからここまでは後ろ歩き。そんな風に場所によって歩き方に変化をつけてやると、演奏にダイナミクスが生まれる。でも今回の質問はもっと手前の話。
習った通りの場所から習った通りのフレーズを間違えずに演奏すれば正しく元の旋律に帰ってくる。そりゃそうだろう。でも歩いてる途中で目を閉じてちゃ駄目だ。目を閉じて歩数を数えながら歩いて、ゴールに着いたら目を開ける。インド音楽はそういうゲームじゃない。ちゃんと目を開けて周りの景色を楽しみながら歩けば、決められたフレーズも息の通った生きた音楽になる。
習ったことを間違えずに弾いてよくできました、の、これはその先の話。ラーガの庭を自由に散策するにはどうすればいいのか。
数を数えてたら音楽にはならない。数を数えるのではなく、ターラを聴く。ターラには流れと起伏があるから、その流れを聴いて自分の中に取りこみ、自分の中でも同じように流れるようにしておく。そしたら思考の一部を切り離して、ターラの専属にさせる。以降ターラの監視と保守はそのセクションに一任。同様にピッチ担当、ラーガ担当も作っておく。演奏ピッチに関すること、ラーガの音使いに関することは常に彼らに監視させておく。そうしておいて、自分は即興の展開と解決に専念する訳だ。
どうやったらそれができるようになるのか。何をどう練習すればいいのか。簡単な方法はある。できることから始めることだ。
例えば速すぎないティンタール(100bpm前後)で12のムクラから1のサムまでのフレーズを固定して、残りの10拍は無音にしておく。ここまでは大丈夫だよね?無音もまた即興演奏のフレーズのひとつだ。これができなければ、できるようになるまで繰り返す。
次に、その10拍の中の任意の場所に、任意の音をひとつだけいれる。ダーディンディンダーサーディンディンダーとかでいい。12からちゃんとムクラに帰ってこれればOK。いろいろな場所、いろいろな音で試してみる。
それができたら今度は2つ、それができたら3つ、4つ、あるいは1つの音を長く伸ばしてみる。タタタタタタタタと刻んでみる。12でムクラに戻れればOK。何をしてもいいけど、やりすぎないこと。常にティンタールのテカを頭の中に流しておく。それをしながら無理せずできる範囲のことだけをする。
これを続けていくと、きっと、何をやっていてもターラが自分の中で流れているようになる。自分の中で流れているターラの流れが感じられるようになったら、後はもう、タイム感のまったくないラヤカリとかをやってもちゃんとムクラに帰ってこれるようになる。だってほら、目を開ければターラはそこにあるんだから。
「きっと」と書いたのは、僕はそういう練習をしてきた訳ではないから。インド音楽と出会った時には、僕は思いついた音をリズムの上に並べて遊ぶことがすでにできていた。いつ、どうやってそれを学んだのかは憶えてない。「言葉を喋る」とか「ボールを投げる」「自転車に乗る」とかと同じようなもので、それをやりたいという想いがあって、きっと最初は不器用に失敗しながら、そのうち段々とうまくこなせるようになってきたんだと思う。
即興演奏というと、何か奇抜なことや突拍子もないことをしてみせなければと思う人は多い。でもインド音楽における即興は、ごく当たり前のことをごく当たり前にやることだ。何も特別なことじゃない。そこにあったらいいなと思う音を探すだけ。
冒頭の質問は、決められた通りにしかできない、どうすればいいか、と言い換えることができる。どうすればいいか。目を開ければいいのだ。斉藤和義も歌っている。歌うことは難しいことじゃない。ただ声に身を任せ頭の中を空っぽにするだけ。
例えば人と会話をする時。野球やサッカーをする時。将棋やゲームをする時。僕らはいつも即興で演奏(play)している。リハーサルをしたりはしない。周到に用意していた戦術が使えない?相手が想定外の対応をしてきた、どうする?臨機応変に対応する。それだけだ。
通常これらは、即興で演奏されることがあたりまえすぎて、いちいち意識もされない。棋士やサッカー選手に「先程の対戦はすべて即興なんですか?」と聞く人はいない。あたりまえだからだ。けれど、多くの人に普通にできていることが自分には難しい、そういう人もいる。即興演奏ができないという相談は、それに似ている。人と会話したいけれど話すのが苦手、なら、無理せず少しずつ話してみるのがいいと思う。初めてのデートで緊張して何話していいかわからない、なら、話題をたくさん用意して矢継ぎ早に相手に浴びせかけるのでなく、落ち着いて相手の顔を見て、相手の話を聞くのがいいと思う。相手の話を聞いて、それについて考えて、思ったことを口にする。それが即興演奏の基本だ。
タブラ奏者は決められたことを繰り返すループマシンじゃない。主奏者の言葉にひとつひとつ相槌を返したり、疑義を挟みこんだりしている。ボケたらツッコミが返ってくる。それを聞いたりいなしたり躱したりしながら主奏者は話を進めていく。音の言葉で会話する。音のボールを蹴りあってゴールを狙う。音を動かして盤上に覇を競う。音を重ねて空間に音響の伽藍を築き上げる。それがインド音楽における即興演奏の姿だ。
これは別に特別なことでもなんでもない。僕らは全員、台本もリハーサルもなしにこの人生を生きている。すべて即興演奏だ。やっていいことといけないこと、やりたいこと、やるべきこと、できることとできないこと、それらを踏まえて自分の行動を選択する。インド古典音楽の演奏者がステージでやっているのも同じこと。そうして、ステージの上でひとつのラーガの人生を生き抜く。ラーガの人生を謳歌する。いい人生だったなと思えるように最善を尽くす。失敗したなあと思っても、一度出した音は取り消せないし、出さなかった音を遡って出し直すこともできない。僕らはみな取り返しのつかない時間の中を生きている。だから、失敗も間違いも悔恨も懺悔もすべて音楽の中に飲みこんで、先に進むしかない。いい人生だったなと思えるように。
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