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『Charlotte』:でたらめ化する時代の(サイエンス・)フィクション

5月末に長周期彗星「ATLAS」が地球に接近するらしい。正確には、その時期に最も明るく輝くということで、すでに接近している、と言える。

2020/07/02 追記:「ATLAS」は結局地球に近づくまでに砕け散ってしまい、地上からその姿を目視することは叶わなかった。しかし7月2日未明、突如また別の巨大な彗星が東京上空で観測。何かしらの時代的な符合が起きていると思わずにはいられない。

一方、地上では未知のウィルスが猛威を振るっている。

この2つの状況から、私はひとつのアニメ作品を思い出さざるをえなかった。その作品には、「長周期彗星の尾に含まれる未知の粒子が思春期の少年少女の脳に作用し、超能力をもたらす」という設定が根幹にあった。

そのタイトルを『Charlotte』という。

2015年に放送されたこの作品。6月放送スタートだったから、ちょうど「ATLAS」が通り過ぎる頃に5周年を迎える、ということになる。

先日、『Chalotte』のシナリオライターである麻枝准が2010年に手がけた作品、『Angel Beats!』が放送10周年を迎えたということでSNS上で話題になっていた。

『Angel Beats!』は、もともと恋愛アドベンチャーゲームのシナリオライターであった麻枝が手がける初のオリジナルアニメ作品ということで、大きな話題に。本業のゲームシナリオでも、自身が作曲したBGM・挿入歌とシナリオの高い次元での融合を持ち味としていただけに、音楽面にも注目が集まった。
結果、プロデュースした劇中バンド「Girls Dead Monster」の楽曲はいずれもスマッシュヒット。2代目ボーカル・ユイの歌唱を担当したLiSAが後に紅白歌合戦にも出場するなど飛躍したことは、多くのアニメファンが知るところだろう。

『Charlotte』は『Angel Beats!』と同じくP.A.WORKSが制作している。監督やキャラクターデザイン担当は新規のスタッフとなっているが、麻枝が全話の脚本を書き、劇中音楽の作曲も手がけたという点は変わっていない。設定上、大きく異なるのは『Angel Beats!』が「死後の世界」を舞台としていたのに対し、『Charlotte』では現実的な世界を舞台にしているということ、そして麻枝が前作の「反省」を踏まえて、メインキャラクター数を絞ったということが挙げられる(各キャラクターが「死後の世界」に来た理由……つまり生前の人生が十分に描かれなかったということは、『Angel Beats!』で少なくない視聴者が上げていた不満点のひとつだった)。

そんな『Chalotte』だが、放送当時はSNS上で多くの批判に晒されることになった(当の麻枝自身が『Charlotte 設定資料集』に収録されたインタビューでそのように語っている)。実際のところ、私も視聴中に決して少なくない「問題点」を指摘していた。エピソードの配分、伏線なしに現れる敵役、登場人物がある決断に至る理路の不明瞭さ……。

その中でも特に気になったのは、作中における「超能力」の扱いである。冒頭述べたが、「超能力もの」としての本作の根幹設定は「長周期彗星の尾に含まれる未知の粒子が思春期の少年少女の脳に作用し、超能力をもたらす」というものだ。本作中に登場する「科学者」たちは、超能力を発現させた少年少女たちを実験動物のように扱い、その能力を軍事転用することを目論む「悪」として描かれる。「科学者」たちはあくまで「出力」としての超能力にのみ関心があり、「なぜ、ひとつの彗星から降り注いだはずの粒子が、個性豊かな超能力を各々に発現させるのか」ということについては関心を示さない。
一方、「キャラクターもの」としてのアニメを観る視聴者にとっては、「なぜこのキャラクターにこういった能力が備わっているのか」という必然性こそが大きな関心事だ。ヒロインへの感情移入とシナリオ展開の絡まり具合が肝要な恋愛アドベンチャーゲームの世界でファンベースを築いてきた、麻枝准のファンであるなら尚のことである。秘めた願望やトラウマが超能力として発現している……ということになれば、超能力の映像的な迫力と、キャラクターの内面の掘り下げが同時にでき一石二鳥だったはずだ。が、結局それは作中でなされない。

筆者の頭の片隅には5年間、常に上記のような「謎」があった。最終的に辿りついた結論はこうだ。

『Charlotte』において、超能力をはじめとした数々の不条理な出来事はとにかくそこに「ある」。科学的な理由付けとか、物語やキャラクターを掘り下げるためというメタ的な理由付けもない。どんなに荒唐無稽であっても、あるものはあるし、起こることは起こるのだから、それに対してどう対処するかだけが問題になる……そのような世界観の下で、作品全体が動いている。

このように言うと、作品の明らかな不備を指摘しないのは単なる思考停止なのではないか、作者と受け手の関係として、不健康極まりないのではないか、という批判がありうるだろう。私もそういった(商業作品としてのクオリティという側面から見た)「建設的な批判」の果たすべき意義については否定しない。

それでも本作品について「あるがままを受け入れる」という態度をとってみることをあえて提唱したいのは、他でもない「この現実」が『Charlotte』化しているからである。
冒頭述べた通り、長周期彗星が地球に接近し、未知のウィルスが地上には蔓延している。観測史上最も早い桜の開花が訪れ、季節外れの大雪が降る。気候変動という事態の前に、「例年通り」という言葉は意味を失うだろう。これからの世界は、何もかもが起こりうる荒唐無稽そのものの世界だ。

それは“麻枝准ワールド”そのものではないか?

麻枝准の描く世界は不条理である。高層の建物から突き落とされても軽い擦過傷で済むし、噴水のように鼻血を出しても出血多量で死にはしない。こうしたギャグ表現はゲーム時代から一貫したものだが、アドベンチャーゲームにおいては主人公=語り手とプレイヤーの視点は一致しており、ヒロインをはじめとするキャラクターの姿も「立ち絵」と呼ばれる静止画が表示されるのみだ。リアリティラインの混乱は、視覚的に隠蔽されている。その弱点をカバーする意味もおそらくあって、『Angel Beats!』では「死後の世界」が舞台に選ばれたのだ(「すでに死んでいる=死んでも生き返る」ことをネタにしたスプラッタ・ギャグは幾度も繰り返される)。
加えて麻枝の手がけるゲーム作品においては必ずと言っていいほど(村上春樹に影響を受けたと本人が公言する)「もうひとつの世界」が登場し、日常への侵入を試みてくる。最初期の作品『ONE~輝く季節へ~』における「永遠の世界」は、その原型たるものだろう。ヒロインとの交流を深めていく最中に突然挿入される「永遠の世界」パートでは、ヒロインの「立ち絵」はプレイヤーの視界から消え去り、写真を加工したと思しき抽象的な風景の画像が、誰のものともつかないモノローグとともに淡々と表示される。そしてその「世界」はヒロインとの恋愛が成就せんとするその瞬間に、主人公の存在を物語から完全に消し去ってしまうのだ。まさに不条理そのものと言える展開だが、ノスタルジックなBGMが醸し出す詩的な雰囲気も手伝って、このパートの人気はファンの間でむしろ高い。

『Charlotte』は『Angel Beats!』の「反省」を踏まえて制作された作品だと先に述べた。麻枝の口から語られるのは「キャラクターの数を減らした」といった具体的な事柄だが、その裏にあったテーマとは、映像という「見られる」ことによって成り立つ表現形態と、今ひとたび正面から向き合うということだったのではないだろうか。
つまり、『Angel Beats!』で作品世界全体を「死後の世界=永遠の世界」化したことは、そこに何が映ったとしても「死後の世界だから」で片づけることができるという意味で、ある種の逃げであった。すべての「目に見える」出来事が「現実的」かどうかで判断されてしまう世界で不条理劇を展開したら、はたしてどのように評価されるのか、と。
その証拠と言えるかどうか、『Charlotte』の主人公・乙坂有宇の(当初開示されていた限りでの)能力とは、「他人に乗り移り、その視界を奪う」というものだった。また対をなすヒロイン・友利の能力は、「対象となる一人の視界から、完全に姿を消す」というものだ。恋愛アドベンチャーゲームにおいて、ヒロインとは唯一主人公=プレイヤーに「目に見えている」対象だったわけだが、本作においてはまさに「目に見えない」ことがヒロインとしての条件になる(事実、友利が「目に見えない」という自身の能力を行使して乙坂を救う展開によって、乙坂は友利に好意を抱き始める)。

数々の派手な超能力、不条理なギャグ、荒唐無稽なシナリオ展開などの「目に見える」要素は文字通り「目くらまし」でしかない。それらをあるがままに受け入れてしまいさえすれば、友利の能力に象徴される「目に見えない」もの――友利が乙坂に感じた「責任」や、母から歩未へ、歩未から友利へ託されていくレシピノートに込められていた「愛情」、それらへの応答として乙坂から友利に向けられる「約束」など――の価値に気づくことができる。
それらは、さまざまな「目に見える」異常の脅威に晒されている「この現実」の私たちにとっても大きな価値を持つものだ。

ここで、「目に見える」は「認識できる」と言い換えたほうがいいのかもしれない。現在私たちを脅かしているウィルスは、「目には見えない」ものだ。しかし科学的知識やその産物である器具によって、私たちはそれを「認識して」いる。
この点についても、『Charlotte』では目配せが効いている。この作品の冒頭は、乙坂有宇の以下のような独白から始まる。

ずっと小さい頃から疑問に思っていた
なぜ僕は僕でしかなく 他人ではないのだろうと
「我思う、故に我あり」とは 昔の哲学者の言葉だそうだが
僕は僕ではなく 他人を思ってみた

哲学を少しでも齧った人間なら即座にわかるように、この独白はデカルトの「コギト・エルゴ・スム」を大胆に誤読している。
「我思う、故に我あり」とは「我(が)思う、故に我あり」なのであって、「我(を)思う、故に我あり」ではない。

乙坂は「バカ」だという設定がされており、そんな彼がデカルトのテーゼを間違って覚えていた、という説明はつけられるのだが、それにしてもなぜわざわざ誤読を作品の冒頭に持ってくるのか。

デカルトは「コギト・エルゴ・スム」によって「絶対に疑い得ないもの」としての「我」を規定し、主客二元論・科学的な認識の礎を築いた人物として一般に理解されている。そう、科学的な認識とは「客観」……「我」を排除した上で「見る」という理念の上に成り立っているのだ。

『Charlotte』の、「コギト・エルゴ・スム」を投げ捨てますよという冒頭からの宣言は、この作品において「客観」を前提とする「科学」というものは存在しませんよ、そのような言葉が出てきたとしても、視聴者が理解する意味でのそれとは同じだと考えないほうがいいですよ、というルールをあらかじめ提示していると考えられる。つまり、本作において「科学者」というのは「悪者」と同じくらいの意味しか持たない言葉である、と。

フィクションにおける「科学」が、現実における「科学」と照らして妥当性があるか……厳密な科学考証を経ているかということは、「SF(Science Fiction)」を自ら名乗りでもしない限りは、本来作品の良し悪しには関係がない。それが問題となるのは、たとえば「科学者」という言葉に、主人公たちと対立する「悪」のような物語上の意味が与えられてしまっている場合だ。

『Charlotte』に寄せられた批判の中には、(本作は特に「SF」であると名乗っていないにも関わらず)「SFとして設定が甘すぎる」というものがあった。その背景には「科学」は客観性によって支えられており、善悪のような価値判断からは原則的に自由であるべきという信仰がある。

しかし真に重要なのは、科学的認識と善悪のような倫理的価値判断とは、互いに独立なものであるということなのである。「これはSFじゃない」と断じることで作品の持つ倫理的価値に目を向けないことは、倫理的価値よりも科学的整合性を優位に置くことを意味する。
これを現在の状況にフィードバックするならば、科学的知識によって初めて「認識される」ウィルスといったものも、「責任」や「愛情」や「約束」などの倫理的価値を脅かすには至らない、ということだ。

「この現実」がでたらめ化する時代に、フィクションに触れることの意義とは何だろうか。
ウィルスに侵された現在、ゾンビもの、パンデミックものを観る・読むという人も多いだろう。しかし短絡的にそういった作品に手を伸ばすのは、科学的認識を聖典のように祭り上げる態度と表裏一体なのではないだろうか。あるSF作品がいくら現実における「科学」を正確にシミュレートしていたとしても、それを超えるような事態が簡単に起きるのが私たちが生きる「この現実」である。サイエンス・フィクションを観る・読むことにまったく意味がないとは言わないが、荒唐無稽で不条理な作品を鑑賞することにも、「現実逃避」以外の価値が必ずあるはずだ、ということを言いたいのだ。

でたらめ化する時代においては、あらゆるフィクションのリアリティラインが不確かなものとなる。一旦そのことを受け入れてしまえば、フィクションに息づくキャラクターたちの物語から直接(ジャンルの限界や科学的整合性といったバイアスを抜きにして)、倫理的価値を引き出すことができる。
今こそ、従来は「SFとして設定が甘い」などと言われて一笑に付されていた作品から、新たな読解を引き出す契機なのではないだろうか。

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