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「思慕」

増田貴久さん、お誕生日おめでとうございます。

お誕生日にブログを書くのも、そもそもnoteを更新するのも久しぶりなので、文章がとても読みづらいと思われます。すみません。

7月4日の深夜のツイートですこし触れたのですが、個人的には『アイドルという仕事を選び、その人生を生きている』時点で、わたしにとってはその存在があまりにも尊すぎるという…
まあまあ、いや相当、拗らせたヲタク人生を歩んでいるわけですが、そんな自担がお誕生日を迎えたことは、奇跡だなと思わざるを得ません。
そして、あわよくば、歳を重ねることを前向きに捉えていてほしいなと思います。
『もう若くない』とか、そういう言葉や感情ではない、彼の人生が明るくなる、あたたかくて深みのある言葉が湧いていればいいなあ。もしくは、身近にいる誰かから、掛けられていたらいいなあ。そう願いつつ。

お誕生日に寄せて、ずっと書きたかった話を書きます。


ヲタクあるある(?)なのかもしれませんが、わたしは花言葉やら石言葉やら、星言葉やら、象徴的な意味を示すあれやこれやがとても好きです。

何より、花言葉を知り、深めようとしたきっかけはまさしく増田貴久さんでした。
当時のわたしは、増田さんという人間にかなり夢を見ていて(今も見ている疑惑は強めですが、)彼を象徴する誕生花には、誰もが知るような可憐なお花か、大輪の鮮やかなお花であればよいなあと薄ぼんやり思っていました。
が、実際調べて出てきたお花は『捩花』というお花でした。(※諸説あります)

捩花(ねじばな)


捩花は時に雑草とも呼ばれるお花です。
寄せ植えなどに使われることもありますが、基本的に『お花屋さんにはほぼ売ってない』お花。

若かったわたしは、当時の彼の境遇もあって、雑草なのか…と少しショックを受けたのを覚えています。
しかし、捩花をモチーフとして詠まれた、万葉集のとある句をこの直後に知り、雑草なんて忘れ去るほどの衝撃を受けます。

『芝付の 御宇良崎なる 根都古草
   逢ひ見ずあらば 吾恋ひめやも』

…あなたと逢うことがなかったならば、
私はこのように恋に苦しむことはなかっただろうに

詠み人知らずの、きっと調べなければ出てこない句。

日本の古来から伝わる、誰かが誰かのことを、もしくは美しいと感じたものに対して詠嘆した、限られた語数の羅列が、平成の今(もう令和だけど、当時ね、)に通じることにまず驚きました。

増田貴久さんという人を知り、好きになればなるほど『どう応援すればこの気持ちは、ベストな形で伝わるのだろうか』という、馬鹿馬鹿しくて、烏滸がましいけれど、真剣な当時の私の悩みであり苦しみ、そしてほんの少しだけの恋心みたいなものにに対して、
捩花のごとく身を捩って、悩みながらも応援する、ありのままそのままで好きでいていいのよ、という答えを勝手にもらった気がしたのです。

増田さんという人は不思議な人で、いつの時代も基本的には何も変わらないように見えるのに、実はフレキシブルに変化を取り入れ、折に触れて我々ヲタク側に新鮮な驚きもたらすアイドルだと思っています。

わたしは当たり前ですが、増田さんではないし、話したことなんかもちろんないし、全てを理解するなんて全然出来ないしそもそも出来ることではないと思っているので、文字には当然変えられませんが、なんとなく、エンターテイメントに対して極めて貪欲かつ責任感があり、常に自身の魅せ方を意識されているのかなと感じています。
彼もまた、捩花のごとく身を捩りながら、小ぶりだろうがなんだろうが、まっすぐと天に向かってのびて、自分に花を咲かせる努力をしているのかしらと、そんなことを時々、こういうお誕生日だったり、なにかしらを迎えた日に思うのです。

捩花の花言葉は「思慕」
類義語の「恋慕」とは異なる、恋愛感情に限らないこの言葉は、個人的にはアイドルを好きになって、愛でて、応援する、という行為にしっくりとあてはまるような気がしています。
勝手な解釈ではありますが、1年に1度しかない、それも自分では基本的に選べない誕生日に、「思慕」という言葉を冠した花を、偶然にも背負ったアイドルがいて、それがわたしの自担だということをなんだか少し、勝手に嬉しく思っている。
まとめてしまうとただのそんな話です。

あらためて、お誕生日おめでとうございます。
増田さんにとってあたたかで優しく、豊かな1年になりますように。

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