コロナ報道禍。

「コロナ禍とは、もはやコロナ報道禍ではないか」という、フェースブックのコメントを見かけて思ったこと。

それがピュアニュース番組であれ報道バラエティであれ、マスメディアで報道に関わる人々は、本当にコロナの収束を願っているのか。
それとも(視聴率のために?)「揚げ足」探しに躍起になっているだけなのか。

確かに、一連の報道を信ずるとすれば、政府の対応はかなりお粗末と言わざるを得ない。緊急事態宣言や蔓延防止法を出したり引っ込めたりする一方、GO TO や中途半端な経済支援を小出しにしていては、「いったいどっちやねん」と謗られても仕方がない。
ことここに至っても、責任を伴う強いリーダーシップは見られず、解決のためには「マスク手洗い三密禁止」という市民の自助努力次第、という不安定な事態が二年近く続いている。この状況は、コロナ発生以来、ほとんど変わっていない、と、多くの市民は感じている。
こうなるともはや、解決は、ワクチンが行き渡るか、決定的な治療薬が発見されなければどうにもならなさそうだ。つまり、そのほかの対策は、それまでの延命に過ぎず、ある意味成り行き、うまく行ったらラッキー、ということになる。

しかし、「優秀の誉」が高い政治家や官僚が、市民の自助努力に甘んじて、成り行き任せで何もしていないわけはない。
実は、我々の不安と混乱の原因は、そうした事実を正確に市民に伝え、必要であれば適切な批評を加え、市民の関心を引き起こす努力を、メディアが怠っているせいだけなのではないのか。
さもなければ、誉高い俊才たちが何もしていない、ということになるが、それはさすがに考えにくい・・はず(苦笑)。

コロナ禍の解決は、行政の適正な対策と、それを理解/納得して行動に移す市民の両輪が回って、初めて実現する。
だとすると、その間に立って、適正な情報を仲介するメディアの役割は、極めて重大だ。揚げ足をとるだけの報道に拘泥している現状は、寂しい限りである。
もちろん、メディアは公衆衛生の専門家ではない。したがって、何かの解決策を提示したり、市民を誘導することは、基本、避けなくてはならない。
それでは一体、メディアが報道すべき「適正な情報」とは何なのか。

それは、コロナの流行にともなって発生した目の前にある問題や課題を解決するために、情報を整理して、提供することに尽きる。つまり、

「その対策は、何を目的として設定されたのか」
「その対策は、何を目標にして設定されたのか」
「その対策は、具体的に何を解決するために設定されたのか」
  そして「その対策は功を奏しているのか」

である。

これは、シンプルなマーケティングのやり方に他ならない。
目的、目標、課題、施策、PDCAだ。
これらの情報がわかりやすく提供されなければ、市民は判断ができず、対策に協力をするモチベーションも高まらない。

例えば、ここで言う目的とは、「国民の健康維持」とか「経済の回復」だ。
極端な考え方として「ワクチン外交による世界制覇」などもあるかもしれない。行政は、いったい最終的に、どのような状態を目指しているのか。
さすがに世界制覇は某国に任せたとして、行政の目指す当面の目的は、国民の健康か、それとも経済の回復なのか。

どちらも大切なのは言うまでもない。しかし限られた時間とリソースを考えると、同時にどちらも、は、適正とは言えない。プライオリティをつける必要がある。もしくは、順序をつける。
仮に喫緊の目的が「国民の健康維持」だとしたら、この下位概念である目標、つまり対策のゴールは、例えば「コロナ撲滅」や「流行のコントロール」や「流行を前提としたコロナとの付き合い方」などとなる。
(それが「経済の回復」であれば、「飲食店への支援」や「コロナ関連失業者への支援」、もしくは「リモート環境の拡充」と言う具合)

しかし常識的に考えれば「撲滅」は不可能だ。
けれども現実の報道を見る限り、皆がそれを目指しているのではないか、という気さえしてくる。
メディアは日々「陽性者数」をカウントして発表しているが、いったい何がゴールは何なのか。「患者数ゼロ」なのか。「ゼロ」ではないとすると、それは一体どの程度なのか。
仮に撲滅を目標とするのでなければ、日々「陽性者数」を発表することは、市民に警戒と不安を強いるだけで、提供する情報としては、適切とは言えない。
一方、「流行のコントロール」を目標としたとする。
こちらであれば、具体的な課題が見えてくるだろう。そこにはいくつかのパターンが考えられる。例えば、

「検査体制の拡充」
「迅速なワクチンの接種」
「重症者病棟の確保」

などだ。
このレイヤーになると、一つに絞るかどうかは、リソース次第になる。目的のはっきりしない対策(マスク配布や、基準がブレブレの支援金)にジャブジャブお金を使っていることを考えると、ある程度絞り込まれた課題なら、複数手を打つことも可能だろう。

「検査体制の拡充」のためだとすると、ワクチンの供給手段はもちろん、接種会場の策定、接種者への連絡と接種実績を把握するためのシステム開発、などなど。具体的にそれらを、いつまでに、どの程度の規模で実現しようとしているのか。
マーケティングで言えば、これは戦術に当たる。
そして賢明な市民が本当に知りたいのは、ここなのだ。行政は、何のために、何をいつまでにやろうとしているのか。その具体的な状況が知りたいのである。
さらに、それは、適切に実行されているのか、また、実行されているとしたら、それは、功を奏しているのかそうでないのか。
もしもどこかで何かがうまく行っていないとしたら、早急に修正しなくてはならない。
これこそPDCAである。しかも、市民の命が危険にさらされている今、爆速PDCAであるべきだ。

メディアは、これらを調べ、整理して、素早く報道してこそ、行政と市民の間に立つことができる。そのためには、自分たちで、戦略的に情報を編成する必要がある。
今、このような対策が具体的に計画されている。それは、こういう目的のために、こういう目標に対して、こういう課題があるから、計画されている。
そして、それは、どの程度実現され、どの程度実効性を発揮している・・・と言った情報の編成だ。

単に陽性者数のグラフを出し、クラスターの発生を指弾し、専門家の断片的なコメントを流し、街場のインタビューで「困りましたねえ」と言わせているだけでは、何のための報道か、よくわからない。
もちろん、「だからこうすべきだ」までをいう必要はない。せいぜいそれは、社の見解(新聞で言う社説)で述べるだけでいい。さもなければ、メディアの中立性は維持できない。
愚直に、市民一人一人が適正な判断ができる情報を、わかりやすく整理して流す。
これこそが、今、メディアに求められることではないのか。

俊才揃いの行政は、多分、しっかりやってるはずだ、と、信じたい。
だとすると、次の責任は、メディアにある。メディアこそ、通りいっぺんで扇情的な情報提供に甘んじることなく、今こそウォッチドッグとして、本当に必要な情報を取材・提供し、仮に行政が機能不全を起こしているのであれば、それを是正する声を生み出すような情報を提供してほしいのだ。

さもなければ、最近よく耳にするようになった「マスゴミ」というレッテルを剥がすことすらかなわないだろう。
がんばれ、メディア。

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