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【思考】選手の引退に思うこと【2】

本山雅志選手の引退発表があったようだ。
「あったようだ」と表現をしているのは、
その事実を未だに受け入れられていないからだ。
エイプリルフールであってほしいといつにも増して思う。

魚屋生活を一年はさんでマレーシア2部リーグに復帰していたから、
今年も突然の発表があるかもしれないと思って情報は探っていた。
「いつまでも現役」と言っていたからあと数年はあるかもと思っていたのでショックを隠しきれない。

1.本山選手との出会い

本山選手を応援し始めたのは、自分が小学5年生の頃だったと思う。
母が好きだった鹿島アントラーズの練習を見に行くなかで、
新規加入として中田選手、小笠原選手、曽ヶ端選手、山口選手、中村選手と一緒の同期組で入団したのが本山選手だった。
「雪の決勝」で有名な帝京vs東福岡で闘った相手同士が同じチームに来る、と言われて話題にもなっていた。

一番印象に残っているのは、U-20ワールドユース、U-22シドニー五輪の頃のこと。
小野選手から繰り出されたパスを受け、軽やかにドリブルしていく姿を見るのが好きだった。

そんな本山選手に憧れて、髪を前髪重めのボブにしていたのは遠い昔のこと。
その頃の本山選手は鹿島で24番、16番をつけ、スーパーサブとして何度もチームに勝利とワクワクをもたらしてくれた。

そんな本山選手がフルで試合に出て、髪もボブから坊主の印象が強くなったのが10番になってからのこと。
元来、謙虚で有名な本山選手は「オレが10番やります」というタイプではないと思うから、
きっと周りからの声があって「それなら・・・」と受け入れたのだと思うけれど、
ビスマルクから受け継いだ10番を背負うのはとても大変だったと思う。
その覚悟もあってのことだったと思うけど、
10番になった頃の本山選手は、
サラサラヘアを靡かせて軽やかに駆けていく若鹿から一気に雰囲気が変わっていった、
それくらい大きな変化があった。

決して驕らない。
けれど、負けず嫌い。
「一生現役」を掲げるほどのサッカー小僧。

そんな姿にいつも憧れていた。

誰にも何にもとらわれず、
ただ「それが好きだから」という理由でここまで走り続けてきた本山選手は本当に凄いと思う。

2.選手の引退に思うこと

本山選手に限らず、自分の職場の先輩も含め、
自分にとっての憧れの存在が引退したり、退職したりすることが年々多くなる度に、
「また一つ時代が終わったのか・・・」なんて感傷に浸ってしまうけれど、
自分自身がそんな憧れられる存在になれるよう、
仲間と切磋琢磨しながらキラキラ輝けるようになっていきたい。

最後に一つ。
本山選手のプレーを直接観に行くと決意して、
コロナ解禁したらマレーシアに行くつもりだったから、
それができなくなったことだけが悔しくて仕方がない。

「いつか」「また今度」「次の機会に」

と言っていたら、その大事な日を迎えられないことになったので、
自分がやりたいと思ったことは思い立ったその時に実現していこう。