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細江みづき、一途に突き進んで開いたスペインへの道

日本リーグ女子・三重バイオレットアイリスの細江みづきが、スペイン1部リーグのロカサ・グラン・カナリア(以下、グラン・カナリア)に移籍することが、5月16日に発表された。
現在、日本代表として国際大会に出場しているわけではなく、三重でも絶対的なレギュラーだったわけではない細江が、いかにスペイン1部のチームへの移籍を勝ち取ったのか。彼女のインタビュー記事をお届けする。
今回の取材に答えた細江の言葉を聞くと、移籍への強い思いはもちろんのこと、一見無茶にも見える中で、前向きな気持ちと冷静な自己分析力、そしてなによりも行動力があれば、道は開けるということがわかる。

海外への思いは小学生のころから

じつは小学生の時から、ハンドボールとは関係なしに、ただ「ハンガリーに行ってみたいな」と思っていました。

どういうことかというと、私がハンドボールを始めたのは高校(益田清風高・岐阜)からなんですが、父(細江守男さん。本巣高、益田高などを全国大会に導いた)がもともと岐阜の高校でハンドボールの指導者をしていたんです。

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細江の父・守男さんはかつて弊誌の
「ワンマン・ルポ」に登場したことがある

それで、ネメシュ・ローランドさん(ハンガリー出身、現法政大監督。一昨年のU-24日本男子代表監督で銅メダルを獲得)が最初に来日したころ、父が勤務していた学校でも指導をしていて。当時小学生だった私はそこについていって、ローランドさんとも面識があったんですよ。彼が「ハンガリーは僕の庭だ」ぐらいのことを言っていたので、「ああ、ハンガリーに行けばローランドさんが面倒を見てくれるんだ」と(笑)。漠然と憧れがありました。

日体大を卒業したあと、日本リーグ1年目は飛騨高山ブラックブルズ岐阜でプレーしたのですが、あまりうまくいかなくて。次の選択肢として海外か国内での移籍が出てきました。

単純な外国への憧れとハンドボールが結びついたんです。

三重で具体的になった「海外でハンドボールをするためには?」

でもその時は大学の先輩が声をかけてくれて機会を得た三重に行くことになりました。ドイツでプレーしていた櫛田監督(亮介)や、梶原さん(晃、現GM)がいて、いろいろな話も聞けたのはよかったです。

実際にはぜんぜん海外でプレーする準備はできていなくて、2人には「なにを言ってるんだ」と言われましたが。

当たり前ですよね。当時は行きたい国もないし、ローランドさんと知り合いだというだけで行けると思っていましたから(笑)。言葉もどうにかなるだろうと。

それで、三重に行ってから本格的に調べ出して、現地にも足を運びました。一昨年(2018年)はオフのシーズンにハンガリーに、そして、昨年(19年)は国体後の期間を使ってドイツに。

ハンガリーではローランドさんにお願いをしてケチメケート(現オムロンコーチで元日本代表の銘苅淳さんがハンガリーで最初に所属したチームの女子)の練習に参加させてもらいました。ゴールデンウイークに3日間ぐらいだったし、チームのレベルは高くなかったので、プレーですごいなというのはなかったですね。

でも日本との違いを感じるところは結構あって、その中でも一番印象的だったのは、練習でいいプレーがあるとみんな「ブラボー!」ってほめるところです。櫛田さんが三重でよく「ナイスプレー!」と言っているのに重なりました。

そのあと始まった日本リーグの18-19シーズンが終わったら、絶対に海外に行こう! と思っていたのですが、監督が梶原さんに代わるタイミング(日本女子代表コーチに専念するために櫛田監督はチームマネージャーに)だし、もう1年いてほしいと言われたこともあって残ることになりました。

結果的には、梶原さんのもとでまた違うスタイルのハンドボールを経験し、移籍してきた石立(真悠子)さんからもいろいろなことを学べたから、残ってよかったと思っています。

ドイツには国体後のオフに行きました。自分でSNSを使ってドイツにいる人を見つけて連絡を取り、練習できるチーム(ベンスハイム)を紹介してもらいました。小林遼平さんという方です。ただ、その間、2日しか練習に参加できる時間がなかったんです。

1日目はサイドをやることになったんですが、そのチームではサイドで1対1をすることをすごく求められて。サイドの経験もありましたが、ちょっと厳しいなと。それで次の日は「センターをやらせてほしい」と話してやらせてもらいました。海外では、そういう強気も必要かもしれませんね。

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OFではセンターとしてプレーする

代理人探しも自分から

もうこのシーズンが終わったら絶対に海外に行くと決めていたので、ドイツから帰ってきたあと、ローランドさんや小林さんにもチームを紹介してもらえないかと連絡をしていたのですが、なかなかうまくいかなかったんです。

それで、自分でいろいろな知り合いにコンタクトしまくっていく中で、吉村さん(晃、豊田合成チームスタッフ、昨年、一昨年のU-21日本男子代表監督)とつながり、そのツテで代理人を紹介してもらいました。

ドイツかハンガリーがいいと代理人には伝えていましたが、最初に連絡が来たのがグラン・カナリアでした。

正直、スペインリーグの女子は少しヨーロッパの中ではレベルが落ちることと、チームがカナリア諸島(編集部注:ぜひ調べてみてほしい)にあって、「ここに行くの?」ということがあってためらったんです。でも、ためらっている間、といっても3日間ですが、その間に一度話がなくなってしまって。

「ウソやろ…」とへこみましたが、条件を変えて再度代理人から打診してもらい、交渉が再開しました。またなくなるかもしれないし、ほかから来る保証もない。

それにメンバーを見ると、例えばスペイン代表GKのナヴァロ(昨年末の熊本世界選手権のメンバー)がいたり、チームもスペインの上位チームだし、ということでグラン・カナリアに移籍することを決めました。

最終的にサインをしたのは3月の頭のころ。でも、ちょうど新型コロナウイルスの影響でスペインがシャットダウンになったりしていたので、ダメになるんじゃないかと気が気じゃなかったです。スペインに行くタイミングはまだ決まっていません(取材は5月19日)。

もちろん監督と会ったことはまだないんですけど、チームのHPにも出ていたとおり(監督の言葉として5:1DFのトップDFとして期待している、など)、私も三重でやっていたトップDFには自信があります。センターとしても、小さいけどそれを活かしてフェイントなどは通用するのかなと。

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三重で培ったトップDFとしての力も評価されている

ハンガリーやドイツで、練習ですけど向こうの選手とやったことで、そこまでの不安はないです。

不安といえば、言葉かな。スペイン語はやらないといけないと思って、先生を自分で探しました。同じ三重の鈴鹿にある「鈴鹿ポイントゲッターズ」の監督(ミラグロス・マルティネス氏)がスペイン人で、その通訳の小澤哲也さんに先生をしてもらっています。ぜんぜん知り合いではありません。自分からツイッターで連絡を取ってお願いしました(笑)。

この積極性ですか? もともとそういうところはありましたけど、三重に来てからますます積極的になったかな。櫛田さんの性格がうつったのかも(笑)。

チームのメンタルトレーニングの成果というのは確実にありますね。その中に夢や目標は言葉に出さないとかなわないというようなものがあって、だから私は「海外に行きたい」と言い続けてきました。それを言い続けることで、そのためになにをするべきなのか、といったことも見えてきたのかなと今は思います。

櫛田さん、梶原さん、チームのみんなには感謝していますし、私がこれまで働いていた日本ケアシステム株式会社も、中途半端な時期ですが理解を示してくれました。本当にありがたいです。

契約は1年とオプションでもう1年。だから最低でも2年はやりたいですし、1年では絶対に帰ってきたくない。

将来的にはハンドボールを教える立場になりたいという思いがあるので、向こうでコーチングについて学んだり、あとは閉じこもらずにいろいろな人と関わりたいと思っています。

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【スポーツイベント・ハンドボール編集部】

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