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第1話・1922年 『伝来の日への興味』

スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

伝来の日が1922年(大正11年)「7月24日」と“定まった”のは古い話ではない。

1987年日本ハンドボール協会創立50周年記念事業「日本ハンドボール史」の刊行が企画された時、編集委員会が探し出した。

それまでは「1922年夏の大日本体育学会による東京での講習会で2年前にドイツの体育・スポーツ事情を視察して帰国した体育指導者、大谷武一(おおたに・ぶいち)が紹介した」という資料があるのみで、期日も7月説、8月説など”統一”されないまま時が過ぎていた。

編集委員会は、ヨーロッパの状況から1922年以前にハンドボールが日本に紹介された事例は考えにくいとし、「夏の講習会」にしぼって伝来の日を”特定”する調査に取り組んだものだ。

講習会の正式名は「体育科夏期講習会」、会期は7月22日から27日までの6日間、会場は東京・大塚窪町の東京高等師範学校。大谷は同校の教授だった。

作業はここで行き詰まる。大谷がハンドボールの体育性に熱弁をふるったとされる日が割り出せない。第1日(7月22日)は開講式などと思われた。大谷は「体育概論」と「体操と遊戯(=スポーツ)」の2科目を受け持ち、ハンドボールの紹介は後者に含まれたものの、どちらが第2日(23日)か第3日(24日)か、それ以降なのか。

編集委員の持ち寄る情報は決め手に乏しく、それでもなんとか「第3日」説にこぎつけ、史上初めて「1922年7月24日」が明記された。

裏づけに富んだ資料・記録が届けば、すぐに“訂正”を告知しよう、とされた。

刊行後に当時の関係者、受講生(合わせて約250人)からの反応や新しい資料はなかった。1年後、「第1日では」との指摘が聞こえたが、その人の記憶はおぼろげで確証に欠けた。

思わぬ“チャンス”が訪れる。朝日新聞が長野冬季オリンピック(1998年)を前に1996年3月から3ヵ月にわたって連載したスポーツコラム「オリンピック百話」のハンドボールの項で「1922年7月24日」が採りあげられた。

全国紙という圧倒的な媒体力。健在の人は少なくとも、周辺の人の目に留まるのは充分に考えられた。残念ながら反響はなく「この日」の“決定色”をいっそう濃くした。

外国生まれ、外国育ちのスポーツが日本に伝えられるのは招かれて来日した牧師や教師によるところが多い。ハンドボールは日本人によって伝来し、しかも月日が特定されている稀(まれ)なケースだ。

歴史には思わぬ発見で事実が塗り替えられる興味がある。いまだに「絶対」とは言い切れぬ「7月24日」。今後、そのような時は訪れるのだろうか――。

第2回は7月25日公開です。

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