因果交流電燈(春と修羅 序)考察

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)

(以外省略)

宮沢賢治の有名な詩、春と修羅の序文である。スピリチュアルとは少し違うかもしれないが、生きていく上での自分と他人の捉え方に役立つと思うのでとりあげる。

とあるゲームでこの詩を知ったのだけれど、因果交流電燈ってそもそもなんだろうか。僕は一つの説として、自我のことを指していると考えている。
自我は心の感情とか思想とか意識とかを引っくるめて内包した単語だとする。もっと広い意味では自分の体や行動についても含まれると思う。
誰しも一度は自分の容姿や性格、生い立ちについて考えたことはあるだろう。そしてそれは自ら選んだものではないという結論に必ず着地する。
まず第一に<自分>は、
名前、容姿、性別、出生地、国籍、健康状態、経済状況(身体的パーソナル)は選べない。
幸福、価値観、性格、感情、思考、行動、言語(心的パーソナル)も選べない。
いやいや、まあ大人になれば選べるようになるのもあるのだけれど、感情だって落ち着くし、価値観も思考も変わる。だけどそれは自発的に変わったものじゃなくて、周りの人々や環境に影響された結果なのではないか。特に名前、容姿、性別は自分で手に入れたものではなく親からもらったものだろう。科学的にも間違いない。つまり何を言いたいかと言うと、身体的にも精神的にも自我は他人によって生み出されているということだ。価値観や思考、行動は他人にもらったものではないか。ただ、それは多くの人と接して手に入れたものともいえる。能動的なのか、受動的なのか論じているのではない。それらは自らの考え方でどちらとも言えるものだから。

因果交流電燈が自我ならば、風景やみんなといっしょにせわしくせわしく明滅しながら、のところも理解しやすいのではないだろうか。
自我は多くの他人によって構成されている(あらゆる透明な幽霊の複合体)。
自我は多数の他我によって構成されている。他人の自我も多数の他我によって構成されている。(それが虚無ならば虚無自身がこのとほりである程度まではみんなに共通いたします(すべてがわたくしの中のみんなであるやうにみんなのおのおののなかのすべてですから))。

詩の最初のわたくしという現象、とは自我の正体が多数の他我によってなりたつ多層建造物ということを指している。
他人と環境のかけ算としてできたものが自分の正体である。自分の正体とは無数の他人のことだったのだ。わたくしとは、みなさんのことだったのだ。わたくしがみなさんで、あなたもみなさんで。もはや自我なんて言葉は必要なく、他我でもなく、その正体は無数の他我、略して無我。わたくしは交流してできていくかわりゆく現象なのである。諸行無常で諸法無我。春と修羅が仏教的思想を孕んでいるのは間違いないと考えられる。わたくしとはかわりゆく無数の他人の集積。絶えず掛けられる式の答え。

じゃあ、わたくしも、みなさんも現象ならば、何が言えるだろう。なんていうかそれこそ作り上げられた現象ならば、宿命というものを信じたくなるのだが・・・。自分が他人や環境に作り上げられたものならば、すべての思考、行動も緻密に決められた科学的な宿命を歩まされているような気もするが・・・・。今回は宿命論を話したかったわけではないので割愛する。

緻密に影響を受け合う他我同士であることはすでに述べた。人間は嫌い同士でも影響しあうものだし、決して理解しあえなくても、お互いの作り上げられた他我同士は絶えず絡みあうのである。あなたがそこにいるだけでそばにいるひとの心は明滅する。あなたの存在、容姿、行動、感情、態度、かならずその光を受けとめる人がいる。あなたもだれかの他我を必ず受けとめる。本当の意味で孤独を感じる必要などない。なぜならあなたは因果交流電燈なのだから。そう、こういうことが最終的に言いたかった。

また、自分を他者の集積だと思えばこそ、今まで生きてこれたことに関して、また今幸せだと感じられているならば、他者に対してより深い感謝を持てるのではないか。自分は他者の心の栄養であり、他者は自分の心の栄養だと思えれば思想としてなお美しい。おしまい。

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