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作者のいない午後 20240703 ーgallery tanenosu 小川直子展にてー


ふと近所のギャラリーに足を運んだ。

たまたま見つけたインスタグラムのストーリーから展示を知り
閉館30分前にそこに向かった。

展示は作者の学生時代の作品から表紙を担当した書籍、
近年のもの、詩集が並んでいた。

柔らかな作風の中に丁寧な生活感が感じられる作品たち
心地よくそれとわない生活へのメッセージを感じさせるものだった。

作品に少し目を通した後に作者の来歴・ステートメントを読もうとして
手が止まった

1979〜2023

それは去年の事だ。しかも私と同じ学年であった作者。

私を呼び出したのはインスタグラムの絵だった。
それは鳥をお腹に宿した母体の絵で
母体の心臓からお腹の中の巣立つべき鳥へと光の糸が連なる。

あー私は亡き人の遺したものに惹かれてここを訪れたのかと。

この経験はどのような意味を持っているだろう。

私のようなしがない音楽作家の端くれは今日も作品の制作とそれにまつわる広報
作品の制作法について朝から向き合っていた。

そこに自分の亡き後の視点は欠けていた。
今を生きることが、制作していくことが前のめりな課題となっていた。

ギャラリーには確かに人が生きた時間の贈り物があった。
それは他者の心に繋がり、その声で何かを揺さぶる。
肉体を離れて、なお作品は人と対話する。

私の見てきた聴いてきた作品群もほとんどが亡き人々からの手紙であるのだが。

しかしそれを同い年の作家から受け取る意味は、私にとってとても深い実感を残した。

ある種当たり前の有限を突きつけられた時
その時間制限内の”美しさ”を私は感じている。

人生がもっと長かったとしても時間の大きな流れの中に
個人の生は、儚い。

儚さを気付かずとも語ってしまう。

私の中に故人との接点はなく感傷のようなものは生まれない
しかし一枚の絵がずっとそこにいて
語りかけている

その眼差しは私にとって、多くの若い作家にとって
貴重な一つの”糸”なのではないだろうか。

生きることに囚われすぎている。
消えていくこと 残ることに意識を少し向けてみる。
それは生きる祈りにも近いことかもしれない。


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