[翻訳] 数論を揺るがす数学的証明が発表される (一方で、致命的な欠陥を修正できていないという専門家も)

本記事は Davide Castelvecchiによって2020年4月3日にNature誌(https://www.nature.com/articles/d41586-020-00998-2) に寄稿された記事を日本語訳したものです。翻訳に誤りがあれば、ご指摘頂けると幸いです。

序文

8年間の苦闘の末、ついに日本の数学者である望月新一氏の論文が査読を通過することになりました。数論における最大の未解決問題の一つである「abc予想」に対する約600ページに及ぶ証明論文が受理されたのです。

この証明を巡っては長く論争が続いていましたが、今回Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences(RIMS) 誌 にこの論文が掲載されることで、事態は大きく進展することになります。なお同誌は、望月氏が所属する京都大学数理科学研究所(RIMS)から発行されており、望月氏自身が編集長を務めています。

この論文の受理は、4月3日に京都市内で行われた記者会見で、RIMSの数学者である柏原正樹氏と玉川安騎男氏から日本語で発表されました。会見の中で柏原氏は、この論文が「大きなインパクトを与えるだろう」と述べました。論文受理の報せを聞いた望月氏の反応を問われると「ホッとしていたと思います」と答えました。

一方、長年記者からの取材を拒否してきたことで知られる望月氏は、この日も記者会見場に姿を見せず、取材依頼も受け付けませんでした。

8年前、望月氏はABC予想を解いたと主張する膨大な論文を4本ネットに投稿しました。その内容は数学者たちを困惑させ、中身を理解しようとする試みに何年もの歳月が費やされました。そして2018年、2人の著名な数学者が、望月の証明に重大な欠陥を発見したと発表しました。

今回のRIMSの発表によって多くの数学者が望月氏を支持する側に回る、ということは起こらなさそうです。「2018年以降、数学コミュニティの意見はほぼ変わらなかったと言って良いでしょう 」と、カリフォルニア大学サンディエゴ校の数論学者キラン・ケドラヤ氏(望月氏の証明の検証に特に労力を費やしてきた専門家の一人)は言います。カリフォルニア大学バークレー校のエドワード・フレンケル氏も「実際に論文が出版されるまでは判断を保留する」と述べています。

未解決問題

abc予想は、整数の足し算と掛け算の間の深いつながりを表現するものです。ごく大雑把に説明すると「2つの数aとbが、多くの小さな素数によって割ることが出来るならば、aとbの和cを割ることが出来るのは数個の大きな素数だけである」という予想です。

もし今回の証明が正しければ、数論という学問に新たな切り口を与えることになります。例えば、1637年にピエール・ド・フェルマーによって定式化され、1994年にやっと解かれた伝説の問題であるフェルマーの最後の定理を証明するための革新的なアプローチを提供することができます。

この証明をめぐる一連の物語は、著名な数論学者である望月が、2012年8月30日に、一般に数学者に使われるリポジトリであるarXiv.orgではなく、彼自身のウェブページに、ひっそりとプレプリントを投稿したことから始まりました。ウィスコンシン大学マディソン校の数論学者であるジョーダン・エレンバーグは、プレプリント公開直後に自身のブログで、「まるで未来や宇宙から来た論文を読んでいるようだ」と書いています。

望月にはこの仕事についての海外講演の招待が寄せられましたが、すべて辞退しています。当時、彼の親しい共同研究者たちの何人かは、この論文が正しいことを確認したと述べていましたが、世界中の専門家たちは、それを検証することはおろか、論文を読み進めること自体に苦悩しました。その後、このテーマに関する学会が設けられ、参加者たちは部分的な進展を報告し合いましたが、結論に至るまでにはおそらく何年もかかるだろうと予測されました。多くの人々が、望月が自身の考えをコミュニティに明確に伝えようとしないことを公然と批判しました。その中には、望月の博士学位論文の主査であるゲルト・ファルティングスも含まれていました。

そして2017年12月16日、日本の新聞紙である朝日新聞は、望月の証明が公式に検証されるのが間近に迫っており、これは1994年のフェルマーの最終定理の証明に匹敵する成果であると報道しました。

同時に、「RIMSの出版誌が望月の論文を受理するらしい」という噂がこの時に流れました。RIMSの編集者たちはこれを否定しましたが、論争は再び燃え上がることになります。望月氏が、自身が編集長を務める出版誌からこの論文を発表しようとすることを批判する数学者もいました。

2017年12月、ニューヨークのコロンビア大学の数理物理学者ピーター・ウォイト氏は自身のブログで、この論文が受理されれば「数学界で歴史的に類を見ない状況が生まれるだろう: 著名な出版誌が"精査の上で有名な未解決予想に対する証明を掲載する"と主張しているが、この論文を調べたこの分野の専門家のほとんどは、その証明を理解していない」と述べました。

論理飛躍の指摘

出版が迫っているという噂は杞憂に終わりました。それから数ヶ月のうちに、望月にとっては事態が悪化することになります。2人の著名なドイツ人数学者 ー ボン大学のピーター・ショルツとフランクフルトのゲーテ大学のヤコブ・スティックス ー が、望月のabc証明に対する反論を個人的に発表したのです。特にショルツは数論の権威と考えられている人物で、2018年8月には数学の最高の栄誉であるフィールズ賞を受賞しています。その年の9月、ショルツとスティックス は望月の論文について「深刻で修正不可能な論理の飛躍」を発見したと公に発表しています。この内容は、数学と物理学の専門誌『Quanta』の独占記事でも引用され、その中でスティックスは「abc予想は、以前未解決のままである」「その最初の証明者になるチャンスは未だ万人に開かれている」と述べています。

望月氏は当時、自身のウェブサイトに投稿したコメントの中で、2人の著者は単に自分の研究を理解していなかっただけだとほのめかしながら、この批判を一蹴しました。しかし、複数の専門家がNature誌に語ったところによると、数学界の多くの研究者は、ショルツとスティックスの反論によってこの問題の決着はついたと考えているようです。

今回の論文の正式受理という報せによって、数学会のスタンスが変わることはなさそうです。ショルツはNature誌へのメールの中で「私の判断は当時から変わっていない」と述べています(スティックス氏はNature誌へのコメントを拒否しました)。

ショルツ氏とスティックス氏の批判を受けて、記者会見で玉川氏は証明の正当性自体に影響は無いと述べました。批判コメントのいくつかは論文に併記されますが、根本的な変更はないと玉川氏は述べています。

もしジャーナルの編集者が「これらの批判を振り払って」大規模な修正をせずに論文を公開したとしたら、彼らと望月氏自身に悪い影響を与えるだろうと、RIMSの発行を代行する欧州数学会(EMS)の会長であるVolker Mehrmann氏は言います。(Mehrmann氏によると、EMSはジャーナルの内容を編集する権限を持たず、Nature誌から連絡が来るまで発表が迫っていることに気づかなかったとのことです)。

とある匿名の数学者は、編集者や査読者に対して同情的な見解を示しています。「もし最高の数学者がある問題の解明に時間を費やし、そして失敗したとして、一人の査読者がそれを裁くことができるだろうか?」

真の「受理」までの道のりは長い

数学界では、自分が編集者となっている学術誌に論文を発表することは、よくあることです。著者が査読プロセスに関わっていない限り「このようなケースはルール違反ではなく、よくあることです」と、東京のカブリ数物連携宇宙研究機構の数学者で、以前はRIMSの出版物の編集委員を務めていた中島啓氏は言います。実際Mehrmann氏も、EMSのガイドラインに違反しないことを確認しています。

柏原氏によると、望月氏は査読プロセスに関わっておらず、論文に関する編集委員会の会議にも出席していなかったといいます。またこれ以前にも、編集委員会の他のメンバーの論文を同誌が発表した例もあります。

望月氏の論文は2020年2月5日に受理されましたが、掲載日は未定です。「非常に長い原稿で、特集号になるので、どのくらいの期間がかかるかは現時点では分かりません」と柏原氏は言います(訳注: 2021年3月5日に掲載された)。

数学界では、仮にジャーナルに受諾の印をもらっても、真の査読プロセスは終わらないことがよくあります。重要な結果が真に認められた定理になるのは、数学コミュニティがそれが正しいという合意に達した後であり、それを達成するには論文が正式に発表されてから何年もかかることがあります。

イギリスのオックスフォード大学の数学者、キム・ミンヒョン氏の言葉です。「長年の困難にもかかわらず、もし本当に望月氏の考えが正しかったと判明したら、それは素晴らしいことだと思います」

Nature 580, 177 (2020)
doi: https://doi.org/10.1038/d41586-020-00998-2

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