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ブルーアーカイブ最終編・あまねく奇跡の始発点 感想【ネタバレ有】

 俺は誰かの為に祈り、託す物語が好きだ。どうしようもなく。

 最終編が終わった。語れることは山程あるが、カタルシスが何分強烈すぎた事もあってしばらくは口も筆も上手く動かせそうにない。まだブルーアーカイブは続いていくだろうが、読了感はジョジョ6部が終わった時に近い。そりゃあもう終わりだろうって? まあなんだかんだ続いてるだろ?

 あなたは誰かの為に自分を犠牲に出来るか? この問いに応えるのはそう難しくない。どこまでの関係性なら、どこまでの犠牲なら、今そういう状況になったら。人それぞれに答えがあるはずだ。
 では、明日の『自分』がそう応えられるか。或いは明後日、或いは昨日、或いは遠い遠い遠い遠い――今の『自分』が、同じ答えを出せると信じられるだろうか。

 七つの古則の二、「理解できないものを通じて、私たちは理解を得ることができるのか」という不完全な問い。そして「理解できない他人を通じて、己〈たがい〉の理解を得ることができるのか」という一つの解釈。この問いの答えが最終編におけるテーマだろう。
 アリスとケイ、シロコとシロコテラー、アロナとプラナ、そして――先生とプレナパテス。同一であってそうではない存在を「他人」だと認め、共に並ぶことで「己」を理解する。
 アリスがケイを認め力を合わせ、ケイがアリスの為に己を犠牲にし、シロコテラーが思い出を取り戻し、シロコが目出し帽をシロコテラーに授け、アロナがプラナに名前を授け、プラナがアロナと先生の為に力を貸し、プレナパテスが先生に生徒を託し、先生が応える。プレイヤーである「あなた」は、プレナパテスを通じて「先生」を理解したのではないだろうか。もしそうだったらあなたは間違いなく「先生」なのだ。

 それにしても相変わらずと言うべきか、本当に上手いシナリオ構成だなとつくづく感心させられる。幾度となく先生の前に現れ、預言者めいた振る舞いを貫いていたシロコテラー。シロコ自身と相対した時ですら揺らがなかった鉄仮面が、生きてシロコの為に駆けつけた対策委員会を見てしまって崩れ落ちる様は本当に辛くなってしまう。
 先生を撃てず、その先生が自分の代わりに色彩に呑まれ、後悔と自責を諦観で塗り潰して、世界を滅ぼす存在として殺してきたものが自分に返ってくる。彼女はシロコでしかなかったのだ。

 プレナパテスの世界でも、先生は失敗したわけではないのだと思う。ああなってしまったのはある種必然で――少なくとも「先生」として、生徒の為に最善を尽くし、努力し、敗れ、最期を迎え、それでも諦めなかった、彼なりの責任の取り方。もう自分には救えない生徒たちを、「自分」に託す為に――だからこその、彼にとっての最終編・『あまねく奇跡の始発点』

 最終編における、物語全体の流れも美しいとしか言い様がない。「シャーレ奪還作戦」の冒頭、キヴォトス社会の不安定さと連邦生徒会の背景が描写され、カンナの決死の行動とRABBIT小隊の活躍によって先生が救出される。
 カルバノクの兎編の巻き戻しから始まる一連の流れだが、襲撃を受けて最初に先生を救いに来るのが敵対すらしていたカンナという展開に驚いた。それも単独、命懸けで、シッテムの箱の回収まで達成している。
 カルバノク編では生徒たちは陰謀に巻き込まれ、思い通りに行かないもどかしいような展開だっただけに、この怒濤の大活躍に評価が一変した人も多いのでは。

 そしてシャーレ奪還後、シロコテラーやゲマトリア・フランシスの登場とともに「色彩」へ立ち向かう「虚妄のサンクトゥム攻略戦」が幕を開ける。
 このフランシスやシロコテラーとの会話は、エデン条約編で行われた問答にとても近い。「ブルーアーカイブ」が学園モノで有る限り、先生は主人公で居られる。その前提が色彩によって変化してしまえば、もはや先生は何者でも居られない。
 それがフランシスの言ではあるが、エデン条約編を経た自分からすれば生徒たちが主人公であるからこその「青春の物語〈ブルーアーカイブ〉」であり、楽園の存在証明を辿り着いた者が出来ないというのなら、この場所を楽園にしてしまう。その為に「先生」は戦わなければならない。フランシスの言う通り、学園モノの先生は無敵の存在だ。「楽園」を守る為に無敵のステージから降りる選択が必要だった。だからこその先生の決断をフランシスは快く認め去った。相変わらず熱心なファンだ……

 シロコテラーとの「運命」と「本質」の話もまた、アリウスを巡る物語で提示された問答である。「Vanitas vanitatum et omnia vanitas」全ては虚しいものである。それでも「今日最善を尽くさない理由にはならない」。
 例え運命が、本質が、真実の全てが終焉へ向かっているとしても、抵抗し続けることを止めるべきじゃない。終わってみれば分かることではあるが、シロコテラーが諦観に塗り潰されていた中、プレナパテスは抵抗を続け、自分を信じ戦い続けていた。答えの出せない命題に信じることで解答する、やはりこれもエデン条約編で語られたテーマであり、先生と生徒が歩む道なのだ。

 虚妄のサンクトゥムを乗り越え、決戦となる「アトラ・ハシースの箱舟占領戦」。本船の中で問われる古則「理解できないものを通じて、私たちは理解を得ることができるのか」。
 時計仕掛けの花のパヴァーヌ編では流されるように解決したことになっていたKeyとリオ会長に改めて向き合う展開は、もはやパヴァーヌ3章と言ってもいいだろう。アリスが兵器ではなく生徒を選び、その為に捨てられたケイ。他人に理解されることを放棄し、否定されたリオ。
 ケイ自身もアリスの為に眠ることを選んでいたけれど、本船に乗る危険を前に動揺もしていた。アリスにとってもケイの存在は皆を傷つけかねないものであったが、それが自分自身でもあることを理解していた。「理解できなかったから、拒絶して、目を背け」た自分自身に名を与え、互いに理解し合う。だからこそ2人は協力し、アトラ・ハシースのバリアを打ち砕く光へ至ることが出来た。そして最後にアリスの為にケイが犠牲となるシーンに於いても、ケイはアリスの未来を信じるからこそ消えていく姿はプレナパテスと先生のそれに重なるものがある。必ずいつか救ってみせるぞ!!!
 パヴァーヌラストで姿を消していたリオ会長に関しては、先生よりもヒマリとリオの問答と言えるだろう。リオの行動は確かに合理的ではあったが、その犠牲となっていたトキとアリスの存在をヒマリが糾弾し、感情的になってでもリオの罪を明白にした下りは、トキという人物像が明らかになった後だからこそ響く。
 リオは先生のスタンスとは対照的な立場であり、ともすればパヴァーヌのラストは「たまたま」上手く行っただけで、リオの行動そのものが間違っていたわけではなかったのでは? という様な余地があったけれども、やはりリオは間違っていたのだ。その事をリオと同じ立場である生徒のヒマリが証明するというのが、この章に於いて最も重要なシーンだと言えるだろう。
 それでも、その罪に赦しを与えるのはあくまでヒマリではなく、トキとアリスの2人だ。トキはただ世界の危機に1人戦い続け、アリスはリオを仲間だと受け入れる。そしてヒマリから「軽蔑などしませんよ。私はあなたが嫌いなだけです」と締めるところは、セイアがミカの事を嫌いと言いつつも、それが理解なのだと知覚していく流れを思い出させる。嫌いだけど尊重する。嫌いだけど信頼する。それは矛盾しない、一つの他人の理解の形だ。

 そして終幕、「プレナパテス決戦」は対策委員会の物語。かつてホシノを救う為に皆で戦ったように、シロコを救う為に戦うホシノたち。いやもう、ここ涙止まらん。シロコテラーが本当は先生を撃てなかったことも地上の皆が先生を心配しながらも諦めてないとこも(ヒヨリが抵抗すべき事を止めるべきじゃないって言った時もダメだった)シロコテラーが泣き崩れるところも先生の最期の言葉も、思い出したら一生泣いちゃう。最後は笑いあり涙あり。まだまだ色んな謎や陰謀は明らかになっていないけれど、これからも青春の物語は続いていく。あまねく奇跡の始発点というタイトルの通り、先生たちの物語はまだまだこれからだ。だから今だけは泣かせてくれー!

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