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『ぼっち・ざ・ろっく』見たよ/読んだよって話とメディアミックスの話をする日。

あ、流行りにのっただけの記事です。

1.音楽が“すごい”の意味

私が友人からぼざろを勧められた際の観点は、主に以下の2点でした。

・アニメとしての演出が面白い
・音楽がすごい

もちろん、ストーリーが面白いとか、キャラクターが可愛いとか、ぼっちあるあるが君には刺さるとかもありましたが、メインは上の2点です。

正直なところ、後者についてはあまり惹かれるワードではありませんでした。キャラソン商法の時代を経た現代において、アニメ楽曲はある程度のクオリティは担保されていると感じていたからです。バンドを取り扱っている以上、そうでないテーマのアニメ楽曲よりはクオリティ高いんだらうなとは想像できるものの、音楽素人で色んな意味で音痴な私が差異を理解できるとは思えないなあ、と。

ですが、そんな私でも理解できるぐらいに音楽はすごかったです。
特に4人での初ライブ。成立はしているが下手な楽曲、なんてのはアニメ鑑賞において初めての体験でした。確かに"すごい"。
音痴キャラが下手に歌うってシーン/演技は見たことありますし、演奏で不協和音が鳴るなんてシーンも経験はありますが、あの絶妙な演奏/歌唱シーンは初めてです。吃驚。
アニメ演出としても、結構"すごい"ことをやったんじゃないかなと思ってます。前例あるのかしら。

2.原作漫画/アニメ間の盛りと削り

キャラクターとはテクストからの遊離可能性を備えた虚構の登場人物です。その前提において。『ぼざろ』に限らず、原作漫画とアニメは同一テクストなのだらうか? 同一を目指すべきなのだらうか? を考えさせる側面があるアニメ作品だった印象があります。

というのもアニメ『ぼざろ』、原作漫画にない演出が多過ぎるんですよね。「きたーん」なる擬声語? 擬態語? はアニメ化されていないエピソードで使われてたりしますし、氷水風呂が全裸からスク水になったりだとか、ダム映像なんかは放送コード等の都合なんだらうなと理解はできるんですけども。

突然のクレイ演出はマジでなんなのさ。現代ではクレイのほうが予算や時間かからないとかあるのかしら?
クレイ演出が実施された第7話が最もアニメ演出が盛られた回だと思っていますが、そこ以外でもちょいちょい盛られています。分かりやすいのがリョウのクズ発言ですね。マシマシです。

但し、アニメ化において盛られるのはよくあることだとも思います。極端な話、動きをつけるのも盛ってると言えなくはないですし。それにしても『ぼざろ』は過剰な気がしてますが、演出を過剰にする方向性自体は体験済です。

気になったのは、原作漫画から削られたエピソードがあること。例えばリョウに作詞の相談をするエピソード。これは原作漫画ではアー写撮影とは別日の出来事ですが、アニメでは同日のエピソードにされています。これはまあ、削られたとはまた違いますけど。完全に消失したエピソードとしては、文化祭前の勉強会。本来はここでひとり/リョウが勉強できないと判明するわけですが、アニメでは完全に消失しました。リョウが勉強できない云々は江ノ島旅行エピソードに盛り込まれましたけども。

アニメ化において削られるのも、体験済ではあります。尺の都合等々ありますから。但し、アニメ『ぼざろ』では、過剰に盛ったエピソードを過剰にしていなければ、勉強会エピソードもやれたのでは? なんて感じてしまいます。この感覚は体験した覚えがないような。
(アニオリ回まで尺が取られるなら覚えがあるんですけども)

3.キャラクターが再構築したテクスト

演出とはまた異なる観点として。原作漫画とは少し異なる展開が生まれていたりもします。

上述したリョウに作詞相談するエピソードなんかもそうですが、原作漫画だと先にリョウの作曲が終わってるので見せにいった的な流れなんですよね。
ご存知の通り(?)アニメだとひとりの詞に影響されて作曲できたみたいな流れになっています。時系列が逆転してる。他だと、原作漫画ではひとりが文化祭に出るかどうか悩んでいることを、喜多ちゃんは保健室お見舞いの時点で知ってる展開でした。申し込み用紙を明確に確認していたからです。アニメだと申し込み用紙に気づいていないかのような会話になっていました。
結局「意図的に捨てたのを知ってて申し込んだ」結論は変わらないんですけども、結論が変わらないのなら何故変更したのか

これらの要素(リョウのクズ発言/エピソードの盛り削り/エピソードの時系列入れ替え)を考えた結果。

『ぼざろ』は、原作漫画をアニメに合わせての再構築を目指した擬似同一テクストなのではなく、原作漫画のキャラクターをまず別メディア(アニメ)に遊離させ、キャラクターありきでテクストを再構築した結果なんじゃなからうか、と妄想しました。アニメなる媒体ありきではなく、キャラクターが先にある再構築。

キャラクターを中心に再構築したと考えると、しっくりくる箇所が増えてきます。第7話。原作漫画だと4コマの出来事でしかない体育祭想起エピソードですが、ひとりにとってはアレだけの時間をかけるエピソードだったのでしょう。それぐらいキャラクター(ひとり)に与えたインパクトが大きかった。
同時に、家族に引き合わせることで、家族4人のキャラクターが鮮明になると同時に、関係性が見えることでひとりたち主人公組のキャラクターも鮮明になります。それにしたって「いつも明るさだけで乗り越えようとしてすみません」は闇が深い。

勉強会エピソードについては方針が反対で、あの段階だとそのエピソードで鮮明になる箇所が少ないんですよね。虹夏ちゃんはそこそこ勉強できて、喜多ちゃんも人並みには勉強できて、ひとり/リョウは勉強できないって分かる程度。それなら鮮明になる箇所だけ別エピソードに混ぜ込んでしまおうって消失/再構築。

リョウのクズ発言が増えているのもキャラクターを鮮明にさせる為なのでしょう。いちばん分かりやすいのがリョウなだけで、虹夏ちゃんも優しい発言が増えてたりしますし。他キャラクターも同様。

キャラクターがテクストを再構築するって概念は以前だと思いつかなかったので、個人的に面白味を感じています。キャラクターとコミュニティの関係性は色々と考えていたんですけどね。

あ、以上です。

終わりに

私はここ数年まともにアニメを見ていないので、今のアニメってこうなっているのかと驚愕しました。もしかしたら『ぼざろ』がエポックメイキングな立ち位置なのかもしれませんが、ここ数年見ていないので判断できません。これが一瞬でもアニメーション消費研究で院進学を考えた人間の末路なのか。

同時に、ここ数年アニメを見ていなかった理由も再確認できました。アニメ鑑賞、どちゃくそ疲れる
アニメ面白いって素直な楽しむ処理と、何故この瞬間に面白みを感じたのかを考える処理が同時に走るので、脳に負荷がかかってました。これが経年劣化か。
とは言えやっぱり面白いなあ楽しいなあって感情を思い出せたので、人生に影響を与えない範囲で再開していきたいっすね。年末年始は時間が生まれますし。他に2022年に話題になった作品って何があったかしら。

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