Abdennour Bidar :「人生を変えるために生活を変える」

【以下は仏「ル・モンド」紙の記事に基づく翻訳です。元記事のURL:https://www.lemonde.fr/le-monde-des-religions/article/2020/07/03/abdennour-bidar-changer-de-vie-pour-changer-la-vie_6045138_6038514.html 】

隔離により、大勢の人が人生の優先事項を見直すことを可能にしたとしたら、今や意味を取り戻すために行動に移すときである、とAbdennour Bidarは誘う。

隔離への回帰。多くの場合、非常に狭い空間の中に、大勢の人が檻の中のライオンのように隔離され、次のように考えた。「今度こそついに決心した。人生を変える。都市を離れる。一度目は捕まったが、二度目は捕まらない」。大勢の人にとって、これは自覚以上のもの、始動装置、および真の電気ショックさえも生み出した。「私はここにいるが、私はここで実際に何をしているのか?」、「私はこの都市で、この人生を生きているが、経済的その他の必要性により拘束され、強制されている。それ以来本当にそこにいることなしに。というのは、それは私の人生ではないから、私が本当に望む人生ではないから。またおそらく常にどこか他の場所で待っている、私がついに生きると決心するこの真の人生から外れている…。しかし、その真の人生はいったいどこで私を待っているのか?まだ始まっていなかったところはどこか?矛盾と当惑。もし私が本当にここにいないとしたら、私はどこにいるのだろうか?してみると、私は本当は何者なのか?今まで、明らかに私は自分自身ではないのか?」。

そういうわけで、隔離中の多くの人の中にやむにやまれず去来し、もはや忘れることができなかった問題は、「世界の中の私の正しい場所」というものである。私が自己実現し、役に立つことができる場所。自分を発見し、自分らしさを持ち、より実質的、より強力、より多産な別の方法で社会に、社会の変化に貢献する場所。そこで他者に向かって進み、真の特異性から、ついに特定され、活用された本来の使命から他者とともに行動する場所。

正しい場所を見つける
逆に言うと、重要なことへの渇望とともに、本来の本質的な存在とのつながりのない職業へと疎外された、あまりにも多くの現代の存在の悲劇は、分離し、分裂し、永続的に内部と外部とに分断されているままでいることである。また、彼らの社会的自己は、内なる自己の可能性に根付いておらず、活気を失い、社会の中で完全に無力な状態に戻っている。そこで、根こそぎにされ、過度に露出され、存在は、必然的に弱体化するので、あらゆる支配のための無力な犠牲者になるだろう。

というのは、このような状況では、個人は「小さなわたし」の非常に弱い力によってしか自分を守ることができないが、そこで抵抗または創造するために、個人は、深い〈わたし〉、あるいは本質的な存在の精神的なエネルギーを自由に使う必要があるだろう…。問題が解決される可能性がますます低くなっているのは、現行の不快なシステムが単にこの分離を引き起こすだけでなく(システムは、共有することなく、魂をより良く支配するために魂を分離する)、常にそれをより悪化させるためである。

それゆえ、隔離中および隔離後に、個人的な重大な緊急事態は、自分自身を再調整し、自分自身と和解することであるという自覚が広まっている。隔離期間中に働き続け(テレワーク)、経済を復活させるために、同期間の後に「もっと働け」との命令は、実存的な生存の反発の形式で、新しい抵抗の激しさに直面した。

中断も減速もなしに、あらゆる犠牲を払って、どんな苦痛を払っても、また決壊に至るまで、個人をその大きな機械の中で機能させることにだけに没頭しているように見えるシステムに直面し、大勢の人は、歯車や将棋の駒のように扱われることにおける、自分自身に対する死を招く危険を突然目の当たりにして「否」と言い、そのとき自分自身に向かって、自分と向き合う大いなる沈黙の中で、少なくともある程度の自分のコントロールを取り戻すために、人生の優先順位を逆転させることを約束した。成功や成績の物質主義的で自由主義的な基準に恐る恐る固執するのではなく、思い切って、虚空、リスクや冒険の中に、ダマシオが言うように「外のゾーン」に向かって身を投じることによって。

そして、そのために(それでも方法や場所を問わず飛び出さないために)、内奥の、それまで押し殺していた、つぼみのうちに摘み取られていた小さな声、生き方における個人的な達成への切望、および精神的な糧となる活動を聞くことを学び始めることによって。なぜなら、まさしくそれらが私たちを自分自身と結びつけるだけでなく、他の人や自然とも結びつけるためである。個人を自分自身よりも大きなものに開くために、宗教を参照することなしに精神的な次の三重の絆。すなわち、本来の本質的な存在の優越、他者への奉仕(社会的、連帯による、博愛的職業および関与を通して)の優越、自然の優越(エコロジーの大義)。

三重の絆のケア
それがすでに一部の人が人生を変えることに着手した方向である。それは、次のように言うよう勧める本能または生命の直感である。誰もが一般化した分割した世界の中で、苦しんでいるのは私たちの絆であり、私たちが再び意味を見出すのに役立つのは私たちの絆であり、特に三重の絆(自分自身、他者、自然との絆)をケアする心配りにより、地球規模で今私たちを待っている集団的な最大の困難、すなわち、皆で世界の破れた織物を修復することにおける個人的な役割を果たすことができると十分に感じている、という直感。

そちら側に革命の気配がある。まだ小さな音だが、この隔離は、この意味で、自覚と決定の加速装置の役割を果たすだろう。多くの人にとって、それは、自分とのランデブーの苦しくも楽しい機会になっただろう。強制的に中止させられたり、辛い状況の中で継続させられたりしながら、それは、多くの人生にとって、リトマス試験紙になっただろう。
この土台に基づき、それが、行動へと移行する始動装置を持っていたこれらの人々の多くにとって、人生を変えるために生活を変える機会になることを私は願っている。そして、そのために、真に個人的な存在の本物の空間、自分自身と調和し、自由と創造性、共有と奉仕の空間をどこかで創造することを期待する。

しかし、実施されているシステムは、確立された秩序と標識のある小道から逃れる者を許さないので、それはよりいっそう困難になる。それは、常により圧迫され、搾取され、追跡されている個人に対して、ますます全体的かつ覇権主義的な支配を行おうとしている。したがって、脱出の候補者へのアドバイスは、人生を変える冒険に一人で乗り出さない、というものである。団結は常に力となる。

具体的には、再び今日性を帯びるのは、コミュニティという概念である、ということである。「世界との接触を絶つ」という宗派的、あるいは閉鎖的な意味ではなく、存在のコミュニティやプロジェクトのコミュニティなど、共同で、3つの最大点の現実化を目指してエコシステムを設立するという意味で。それらは、一人ひとりが自分の存在と自分の行動との間での最大の一致、共同体の他のメンバーに同じ可能性をもたらすために、自分の存在と行動から、一人ひとりに最大の貢献をすること、精神的エネルギーの小さな原子力発電所として、各共同体が「偉大な世界」、つまり社会と文明の世界的な変革の方向へ、まさに「よくつながった人生」という新しいパラダイムに向かって最大の放射をすることである。グローバルに行動するためにローカルに行動せよ。具体的な発展の場、すなわち行動の共同体の規模と空間を見つけることで、職業やさまざまなコミットメントを通じて新しい世界の発明に参加し続けながら、可能な限り広い外の世界に向けて、自らを有効かつ強力に投影する力を共に育むことができる。

これは、危機的状況の中で生成していることであり、私が確信し、観察していることである。それは、ある種のIターンであるが、全員が田舎に戻るという意味ではなく(多くの人にとっては、これが想定される解決策であるが)、システムによって上から強制された同じ生き方の画一性の中に全員が集まった段階が、多様性を取り戻している現実に道を譲ろうとしているという意味である。なぜなら、国や権力者から離脱することなく、必ずしも市民的不服従に頼ることなく、個人が自律の方向と、具体的な集団、自治区の方向の両方を取り戻すので、私たちは、次のような非常にシンプルな目標を掲げて、自己決定の可能性を現実的かつ進歩的な方法で体験する。すなわち、自分を取り戻しながら、エネルギーと意味のある人生の中で、自分自身、他者、自然と共に存在すること。


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